式台付き脇玄関を構える

南東からの外観

 今日の嘉瀬町は平安時代、加世庄といわれ、平教盛の所領とも伝えられています。平家物語や源平盛衰記には鹿瀬庄として、安元3(1177)年の鹿ケ谷の陰謀に連座し、鬼界ケ島に流された平康賴らが後に許されて帰京の途中に鹿瀬庄に立ち寄ったと伝えられています。

 また、嘉瀬町法勝寺の執行俊寛が鬼界ケ島から抜け出して嘉瀬庄で死去したと伝えられ、今日でも法勝寺に墓碑が建立されています。

 有重は東方に西与賀と境にした本庄江が流れ、かつては本庄江の水運に恵まれていました。蘭家の建物は曲り家形式で脇玄関を構えた風格のある農家の建物です。一般的な間取りは内向きの生活空間を省略した造りが多いようです。日常、茶の間と納戸が実生活の場として使われ、憩いの場でもあったようです。

 全国的な視野で見ても、普通の形式であって最も古い民家の形式に近いものです。中世から近世の時期までは佐賀地方も曲り家の形式が多かったようですが、近世のある時期から急速に形式もくど造りが盛んになり、そして時代が下って漏斗(じょうご)谷造りと段階的に進んでいったようです。そこには民家の生きた歴史と姿を見ることができます。 

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