山向こうの立川炭鉱と大川野駅が索道で一直線につながり、石炭が24時間休むことなく運ばれてきたと説明する田代保馬さん(左)。右は毛利東さん=伊万里市大川町の同駅ホーム

立川炭鉱が操業していた昭和11(1936)年から昭和45(70)年ごろ、大川野駅にあった石炭の積み込み場

 午後8時52分。二つの列車が伊万里、唐津方面へそれぞれ走り去ると、辺りはしんと静かになる。伊万里市大川町のJR大川野駅。石炭を積んだ貨車に見立てた黒い外観の駅舎は、その日最後の乗客を送り出すと夜の中に沈んでいった。

 駅舎は12年前、JRによって解体された旧駅舎の跡地に市が建設した。観光案内を目的に地域の歴史を紹介する資料室を併設し、炭鉱で栄えた往時の写真などを展示している。

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 この地に鉄道が通ったのは昭和10(1935)年、私鉄の北九州鉄道が博多-東唐津-伊万里間に敷設した。大川町誌によると、当初は東唐津-伊万里間は国鉄岸嶽線(山本-北波多)を経由する最短ルートが検討されたが、大川村立川で炭鉱開発の計画が持ち上がり、山本から大川の方に回るルートに変更された。

 地元も熱心に誘致し、交渉を優位に進めるために鉄道会社の株を買い取る運動までした。鉄道の整備は悲願であり、町内に記念碑が三つも建った。

 立川炭鉱が開坑した翌年の昭和12(1937)年には日中戦争が始まる。戦時下、24時間態勢で採掘された石炭は、索道(ロープウエー)を使って約3キロ離れた大川野駅に運ばれた。「ゴンドラが20~30メートル置きに連なり、一日中頭の上でガラガラ音を立てるのを聞きながら暮らしていた」。立川で生まれ育った田代保馬さん(83)が述懐する。

 駅でも石炭の積み込みが休みなく行われ、戦後の最盛期は夜中も煌々(こうこう)と明かりがともった。だがその光景も姿を消す。石油へのエネルギー転換で採炭量が減り、輸送手段もトラックに変わっていった。

 立川炭鉱は昭和45(1970)年に閉山。炭住街から次々と人が去り、一時8千人を超えた大川町の人口は数年後には4千人を割った。「同級生が毎日のように転校していってね。記念にもらう鉛筆とノートが、どんどんたまってもうれしくなくて」。当時小学生だった市議の中山光義さん(56)の切ない思い出だ。

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 今年3月、JR九州は地方路線の大幅減便を実行し、筑肥線の唐津-伊万里間は上下最終便の2本を削減した。人口減少と高速道路網の拡大で乗客減に歯止めが掛からず、同区間は民営化した昭和62(1987)年と比べて7割近く減っている。

 同じ月には、福岡市からの高速道路が唐津、北波多を経由して伊万里市中心部までつながった。沿線の過疎化とともに車社会が進展する中、筑肥線の未来はどうなるのか。大川野駅のそばに住む元小学校教諭の毛利東さん(80)は「炭鉱の閉山から半世紀、鉄道は生活の足として地域を支えてきた。これからも欠かせない存在です」と力を込めた。

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 JR伊万里-唐津間の沿線を巡りながら地域の移り変わりを描きます。地域の話題面の伊万里・有田版で連載し、次回は肥前長野駅を訪れます。

 

 ■筑肥線 北九州鉄道が博多-東唐津-伊万里間に敷設した路線が昭和12(1937)年に国有化されて国鉄筑肥線となった。かつては1本の路線だったが、一部区間の廃止や経路変更などを経て、現在は姪浜-唐津間、山本-伊万里間に分かれている。唐津線(唐津-山本)を介して連絡している。

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