東京五輪の4年前、ローマ大会の採火式の視察で、現地スタッフから説明を受ける中島茂さん(左)=1960年、ギリシャ・オリンピア、池田宏子さん、剛さん提供)

『1964東京五輪聖火空輸作戦』の表紙

 1964年の東京五輪の回顧本で佐賀県出身者の功績が取り上げられている。神埼郡神埼町(現神埼市)出身の故中島茂さん(1914~2007年)で、ギリシャを含め十数カ国・地域を巡る聖火の空輸に奔走した。2年後の東京五輪・パラリンピックを前に、過去の聖火リレーの苦労や舞台裏に光を当てている。

 著書は『1964東京五輪聖火空輸作戦』で、ノンフィクション作家の夫馬信一さん(58)=東京都=が今年出版した。

 中島さんは元陸上選手。旧制三養基中学校時代に第18回全国中学陸上競技選手権大会の1600メートルリレーでアンカーを務め、日本記録を更新した。卒業後は体育教諭になり、旧制佐賀高などで勤務した。1948年からは行政に身を置き、県体育保健課長を経て文部省(現文部科学省)に入った。

 58年の第3回アジア競技大会の聖火係を務めた経験を買われ、東京五輪の裏方に加わった。ギリシャから聖火を運ぶ国外小委員会や、国内のリレー経路を調整する国内小委、聖火灯を開発する技術小委を掛け持ちした。3組織に参加したのは中島さんだけで、技術小委では委員長を務めた。

 東京五輪の4年前の60年には、ローマ大会の採火式をギリシャで視察した。次女の池田宏子さん(77)=神奈川県=は「いつも留守がちで、どんな仕事をしているのか分からなかった」と多忙ぶりを振り返る。

 聖火の国外での空輸を巡っては当初、戦後初の国産旅客機YS-11の起用が検討されたが、開発が遅れていた。「63年の予備飛行計画にYS-11は間に合わない」と指摘する文書が文部省から提出されたことを契機に、当時の日本航空社長松尾静磨氏(武雄市出身)を委員長とする聖火空輸専門委員会が発足、結果的にDC-6Bが採用された。

 この文書の鑑定を夫馬さんが試みたところ、中島さんの筆跡と同じだった。機種選定については、政治が絡んで国産機を押す動きが強かったが、中島さんが異を唱えたことになる。夫馬さんは「いい意味で空気を読まず、実現性を重要視した。だからこそ成功した」と評価する。

 中島さんは国外空輸の最中に左目を失明している。以前から中心性網膜炎を患い、「五輪か目か」と医者から告げられていた中、五輪を優先した。周囲に心配をかけないようにと、空輸中は症状を明かさなかった。夫馬さんは「当時の五輪組織は、とんでもない働き方を強いられた。中島さんら現場の存在はそれだけ大きかった」と話す。

 宏子さんは「父はリレーの成功が誇りだった。この本で思い出がよみがえった」と感じ入る。多くの人たちが準備に関わる2度目の東京大会の成功を祈っている。

 ▽『1964東京五輪聖火空輸作戦』は原書房刊。A5判、318ページ。2500円(税別)。

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