玉岡誓恩師の墓碑=基山町園部

 1910(明治43)年4月、神原玄祐師は大興善寺の玉岡誓恩住職のもとに入門した。当時15歳の玄祐少年に誓恩師は、自分の真価を問う意気込みで教育に当たった。

 玄祐少年もまた修行に精進し、朝の勤行のあとの境内の清掃など惜しみなく努めた。誓恩師は次第に少年に終生の希望をかけるようになっていった。

 10年も暮れの12月28日、基山村長の酒井忠氏が急逝する。村葬として行われた告別式に、誓恩師は風邪気味のなか高熱をおして参列した。式後、同席していた鹿毛良鼎氏に手を引かれるようにして帰坊するが、師は床の中から枕頭にはべる鹿毛氏らに「寺を頼む。玄祐がお世話になろう…」と話し、やがて眠りについた。

 急な病に冒されて第95代住職玉岡誓恩師は、翌11年1月4日、こつぜんとして遷化する。享年59。

 後に神原玄祐師は、誓恩師と共に過ごした日暮らしを振り返り、「近郊随一の高僧として、知名度高い大興善寺老師玉岡誓恩法師に随順するに及び、人が生まれ替わったように、悪童祐次郎が仏弟子玄祐となって、総(すべ)てに純真そのものの修行に励んだ」と記している。

 (地域リポーター・久保山正和=基山町小倉)

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