今年は明治維新150年。3月17日に「肥前さが幕末維新博覧会」が開幕して1カ月あまりです。新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は城東中(佐賀市)の旧2年4組です。(授業実施は2月26日)

長井泰輔先生(後列右端)と旧2年4組の皆さん

島の志継ぎ北海道開拓を

【きょうの教材】島義勇の蝦夷地調査 安政4(1857)年

(「さが維新前夜」2017年7月29日付より​)

 「樺太には金額を惜しまずに早く手を付けたい」。安政4(1857)年に蝦夷地(現在の北海道)を調査した島義勇の旅日記の一節だ。

 米のペリーが浦賀に来航したのと同じ嘉永6(1853)年にプチャーチンが長崎に来航して以後、樺太を巡りロシアとの国境画定交渉が行われるなど、日ロ間の領土問題が次第にクローズアップされてきた。諸藩の関心が蝦夷地に向き、幕府が蝦夷地を有力諸藩に分割領有させるといううわさも広まった。

 佐賀藩主鍋島直正は安政3(1856)年、島と犬塚与七郎の2人の藩士に蝦夷地調査を命じた。2人は命を受けた翌年の3月に箱館(函館)から調べ始め、5月からは島が、幕府の箱館奉行に同行する形で、4カ月半をかけて蝦夷地と樺太を巡った。

 佐賀藩はなぜ蝦夷地に強い関心を示したのか。「藩内の産物の新たな市場として、箱館や蝦夷地を想定していた」と研究者はみている。近代化に取り組んでいた佐賀藩にとって、嘉永7(1854)年の日米和親条約で補給港として開港した箱館での交易は魅力であり、島は重臣への書簡で、陶器などを箱館に運んで販売し、蝦夷地の海産物を佐賀で売るよう提言した。

 幕府は最終的に、東北諸藩に蝦夷地を警備させ、領地を分け与える形でロシアの南下政策に対応した。島と同様に幕末に蝦夷地を調査した各藩の人材は、明治になって北海道開拓に携わることになる。

 蝦夷地が「北海道」と命名されたのは明治2(1869)年。名付け親とされているのが、幕末から明治にかけて活躍した伊勢(三重県)出身の探検家松浦武四郎。6回にわたって蝦夷地を調査し、佐賀藩士の調査にも協力した。松浦は明治に入って新政府に出仕。蝦夷地に代わる名称を6案提出し、その中の「北加伊道」が採用され、最終的に北海道に決まった。

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各班で「自分が島義勇だったら北海道をどう開拓していくか」を話し合い、代表が発表した=佐賀市の城東中

長井泰輔先生 きょうは、佐賀の人が明治時代の初めに、北海道の開拓に大きく関わったことを学習します。佐賀藩の藩主だった鍋島直正が明治新政府の開拓使という役所の初代長官となり、その下で島義勇が実務を担い、北海道をどう発展させていくかを考えました。山口佐賀県知事が以前に北海道を訪れた時、「島義勇の出身地・佐賀県の知事がやって来た」と、地元テレビ局が報じるくらい、島は、北海道では開拓の礎となった人物として有名です。では「島義勇の蝦夷地調査」の記事を書いた江島貴之記者の話を聞きます。

江島貴之記者 最初に、なぜ島義勇は蝦夷地、現在の北海道を調査に行ったのか。背景には「南に勢力を広げよう」というロシアの南下政策があります。

江島記者(中央)から記事についての話を聞いた後、各班に分かれて北海道をどう開拓するかを話し合った

 当時、樺太は日本とロシアのどちらの領土か決まっていなかったし、ロシアは蝦夷地にも興味を示していました。幕府は蝦夷地を「日本の一部」として守っていこうと考え、5人の老中が家臣を調査に送り込みました。「幕府が有力藩に蝦夷地を分割領有させる」といううわさも広まり、諸藩も蝦夷地に関心を持つようになりました。そういう動きの中で、佐賀藩は島を調査に派遣したのです。

 佐賀藩はなぜ蝦夷地に興味を持ったのか。それは藩の産品の新たな販売先や交易地として、蝦夷地や箱館(現在は函館)の港に目を付けたということです。佐賀藩は近代化に取り組んでおり、そのための資金が必要でした。

 結果として、有力藩による蝦夷地の分割領有は実現しませんでした。しかし、佐賀藩と島の働きは無駄だったわけではなく、明治に入って開拓使が行った札幌の街づくりなどに生かされました。島は、碁盤の目のような整然とした札幌の街並みを目指しましたが、それは京都や故郷の佐賀などを念頭に置いていたとされています。

 島は北海道開拓以外に、明治天皇の侍従や秋田県の知事(権令)も務めました。最後は佐賀の乱で敗れ、江藤新平とともに処刑されました。

長井先生 では、これから「島義勇の後を引き継いで、自分なら北海道をどう発展させるか」を、各班で考えてください。

(各班で話し合い、代表者が発表した)

生徒1 「広い土地を生かし、いろんな農作物を作る。海産物をたくさん取り外国に輸出する。雪が多いことを外国にアピールし観光客を増やす」

生徒2 「本州などからの移住者を募り人口を増やす。山地を削って工業団地を造り、工業団地を中心に都市を造る」

生徒3 「交通網を発達させる。外国から人が来やすくなるよう外国のいろんな文化を受け入れる。大きな企業を立ち上げて働く場所を増やす」

生徒4 「夏は涼しい気候を生かした農業を行い、冬は地場産業に力を入れる。アイヌの人々に日本文化を伝え、人口を増やし開墾を行う。函館港を通じて日本とロシアをつなぐ貿易を活発にする」

長井先生 単に教科書を覚えるというのではなく、佐賀の先人たちの偉大な業績を頭に入れ、「自分は将来、何をやろうか」ということを考えてもらえたら、今日の授業はとても意味のあるものになると思います。

【授業を聞いて・みんなの感想】

森 椋太郎さん

 島義勇がどのような人物で、どういう業績を残したのかをしっかり知ることができた。島義勇が「佐賀の七賢人」の一人と知ってはいたが、県内でだけ知られていると思っていたのに、北海道でとても有名なことに驚いた。授業で、明治時代の北海道を発展させる方法を考えた。ぼくは、人口を増やしてロシアとの貿易を活発にすることで、財源を豊かにできると考えた。幕末維新のころに、島義勇が将来の北海道を見通して仕事をしていたことにも驚いた。

 

北島彩華さん

 島義勇が「佐賀の七賢人」であることは知っていたが、彼の業績をしっかり勉強したのは初めてだった。当時まだよく知られていない北海道に行き、調査したすごい人が佐賀にいたのだと、あらためて驚いた。島義勇の佐賀県内での知名度があまり高くないと聞いて、これから有名になるといいなと思った。記者さんが島義勇についての質問に丁寧に答えてくれて、明治維新での佐賀の役割についても詳しく知ることができた。

 


【維新博 INFORMATION】

北海道開拓の父 「島義勇」銅像建立

 今年は明治維新150年、北海道命名150年の年。この記念すべき年に、明治新政府において初代開拓判官として北海道開拓に貢献した佐賀出身の島義勇の開拓者精神と、札幌を世界一の都市にしようとしたその「志」を、県民の皆様をはじめ多くの方に知ってもらうために、島義勇の銅像を今秋、佐賀城公園の一角(佐賀城西御門跡付近)に建立します。

 この銅像は、佐賀藩10代藩主鍋島直正に蝦夷地調査を命じられ、これから北海道に旅立つ34歳頃の島義勇の姿を表現します。

 銅像の建立に当たっては、昨年4月18日からふるさと納税による寄附金を募集しており、4月6日現在の申込実績は、約1435万円(321件)です。個人の方は1万円以上、法人・団体の方は10万円以上のご寄付で芳銘板にお名前を刻印できます。寄附申込書によるお申込みは、9月10日まで受け付けています。

 寄附に関するお問い合わせは、佐賀県肥前さが幕末維新博事務局(0952-25-7504)まで。

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