幕末・明治150年に合わせて選定した「唐津八偉人」のタペストリー=唐津市大手口

 今でも唐津では「唐津藩は佐幕派だから、明治維新とは関係なかろうもん」という声をよく聞きます。ところが真実は違いました。

 小笠原長行が幕府の老中を勤めていたため、当初唐津藩は徳川方と考えられていました。慶応4(1868)年2月、薩摩藩による唐津城攻めの噂(うわさ)や太政官(だじょうかん)から世子長行の切腹か唐津での謹慎を要求された藩主小笠原長国は京都に上洛(じょうらく)。謹慎する中、「朝敵御免」や「謹慎御赦免」の嘆願書を出していましたが、謹慎させるべき長行が、3月に密(ひそ)かに江戸から逃亡。ますます唐津藩の立場が悪くなる中、長国は起死回生の一手を打ちます。それが「御軍艦御必要之儀」として、唐津藩所持の石炭「500万斤(約3000トン)」の新政府への献上でした。

 これは戦費に乏しい新政府にとって、物資、兵員輸送を行う上でも、軍艦(蒸気船)の燃料となる石炭の献上は非常に有り難い話でした。これにより長国および唐津藩は勤王の志に二心はない、という評価をもらい、唐津藩の立場の好転に成功します。

 以後、唐津藩は戊辰戦争において石炭の供出や兵庫港、敦賀港などへの石炭の運搬や軍艦への配分など、後方支援を担当し活躍しました。また、長国に対して7月には新政府より、それまでの「佐渡守」から格上の「中務大輔」の官位も賜与されました。

 このように明治新政府の一員となったと自負する長国は、今度は日本の近代化まで考え、新政府に提言するようになりました。(つづく)

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 幕末、佐幕派として、同じ佐賀県でも鍋島藩とは全く違った明治維新を迎えたと思われがちな唐津藩ですが、はたして真実はそうだったのか。明治維新150年を画期として、明治維新を迎えた唐津藩のさまざまな立場を再検証します。(黒田裕一)

 

 くろだ ゆういち 福岡県柳川市生まれ。琉球大学法文学部史学科卒、国学院大学大学院文学部史学科博士課程前期修了。1999年、旧相知町役場(教育委員会)入庁。現在、唐津市教育委員会兼唐津市明治維新150年事業推進室推進係長。

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