パリ万博に出展された「色絵龍鳳凰文蓋付大壺」を見学した(左から)重原聡さん、恵理子さん、神山典士さん、ミヤザキケンスケさん=有田町の深川製磁チャイナ・オン・ザ・パーク

パリ万博に出展された「色絵龍鳳凰文蓋付大壺」を見学する(左奥から)神山典士さん、重原聡さん、恵理子さん、ミヤザキケンスケさん=有田町の深川製磁チャイナ・オン・ザ・パーク

 1900(明治33)年のパリ万博で日本館の出展責任者を務めた富山県出身の美術商・林忠正(1853~1906年)の子孫らがこのほど、有田町を訪れた。日本美術の魅力を世界に広めた立役者として再評価されている林と、万博で注目された有田焼との関係を調べ、大作を出展した深川製磁などで興味深く話を聞いた。

 林は20代で渡仏し、パリを拠点に日本の美術品を売り込んだ。当時の欧州は日本趣味が流行し、特に浮世絵の人気は高かった。一方、日本では明治に入って浮世絵の価値が低下しており、林は大量に扱うことができた。

 後年、浮世絵が国内で再評価されると、林は海外に流出させた人物として非難された。ただ世界に日本美術の存在を知らしめ、日欧の文化交流に尽力した功績は大きく、顕彰する動きが近年活発になっている。

 5月15、16日に有田町を訪れたのは、林の子孫の重原聡さん(65)と妻の恵理子さん(64)、林についての著作があるノンフィクション作家の神山典士さん(65)、佐賀市出身のアーティスト・ミヤザキケンスケさん(46)の4人。重原さんは神奈川県で歯科医院を経営し、ミヤザキさんに壁画の制作を依頼して縁ができた。

 林はパリ万博日本館の事務官長に就任すると、日本文化の魅力をアピールしようと全国を奔走して逸品を集めた。有田焼は幕末、明治期の万博に数多く出展され、パリ万博では深川製磁の創立者、深川忠次が制作した「色絵龍鳳凰文蓋付大壺(いろえりゅうほうおうもんふたつきおおつぼ)」が日本館のエントランスを飾った。林が有田を訪れた可能性は高かった。

 今回の訪問では、有田を代表する窯元や九州陶磁文化館を回った。林の足跡を直接示す資料は見つからなかったが、「収穫はたくさんあった」と重原さん。深川製磁窯主の深川一太さん(77)は忠次と林の関係を30年前から調べていて、「忠次の欧州での成功の裏には林のアドバイスがあった」と推測できる資料やエピソードを披露した。

 重原さんは「深川さんや九陶の鈴田由紀夫館長は林のことに本当に詳しく、貴重な話を聞くことができた」と満足した様子。神山さんは「林と有田焼の関係について書こうと思う」と意欲を見せた。(青木宏文)