80年前の終戦時、女優の月丘夢路さんは兵隊とのメロドラマを撮影中だった。国敗れ、仕事はもう続けられないと撮影所へあいさつに行った。「きみ、何言うんだ。映画はこれからだッ」。会社の重役は、月丘さんの相手役を船員に変えて撮り直させたという◆それまで戦意高揚に手を貸してきた映画人の変わり身は早かった。映画は戦後、占領軍の指示で民主主義を広める役割を担うことになる。「なぜ日本映画にはキスシーンがないのか」。そんな指摘で生まれた一本が昭和21(1946)年の『はたちの青春』である◆戦時中は男女のわずかな愛情表現もご法度。外国映画の口づけの場面もカットされた。時代が変わったとはいえ、初めてのキスシーン撮影には苦労もあったらしい。ヒロインは米国人から手ほどきを受けたり、口に消毒薬のガーゼを含んだり…。それもこれも民主主義教育のためである◆いまはCGで簡単に映像が作れる時代。AI(人工知能)の進化でどんどん人手はかからなくなる。とりわけハリウッドでは仕事を奪われる懸念が強い。そんな労働者層を政治基盤に取り込もうと、大統領は外国映画への関税を叫んでいる◆映画に政治が絡むとろくなことはない。『はたちの青春』の公開日にちなんで、きょうは「キスの日」。甘い記憶などないせいか、最後はつい苦口になる。(桑)
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