佐賀市諸富町の小杭地区にある築80年の住宅。江頭正迪(まさみち)さん(91)は、住み始めた頃をよく覚えていて、杉の床柱にはひときわ思い入れがある。父が苦労して木材を確保しながら建てた住まいで、大事に受け継いでいる。終戦直前、のどかな農村地帯に甚大な被害をもたらした佐賀空襲。家族は逃げてなんとか無事だったが、自宅は焼失した。

江頭正迪さんの自宅の床柱は、終戦直後に家族で杉の皮をはいだ思い出がある
■1945(昭和20)年8月5日午後11時半過ぎから翌6日午前1時にかけて起きた佐賀空襲。米軍の爆撃機B29の編隊65機が佐賀市南部に焼夷(しょうい)弾など約2200発を投下し、61人の命が奪われた。
「空襲の何日か前に母親が、米軍機がまいたと思われるビラを拾ってきた。『軍事施設、軍需品を製造する工場がある都市を数日中に爆撃する』といった内容だった。隣近所で話していると、警察だか憲兵だかがやって来てビラを没収したと聞いた。いま思えば、出撃の予告だったのだろう。