仕事柄、録音機を回しながら人に話をうかがうことが多い。音声を聞き返すと、「あれ、こんな話したっけ?」とびっくりすることがある。ふと漏れた本音めいたものを聞き逃していたり、相手が力を込めた瞬間とは違うタイミングで相づちを打ったり。実は話を聞いていなかったのでは、と冷や汗をかく◆決して言い訳ではないのだが、人は身の回りの音すべてを聞いているわけではない。「聞く」という行為は、その音を必要に応じて取捨選択することである。そして、人はしばしば選び損なう。SNS全盛のいま、自分勝手にしゃべる人ばかりが増え、「聞く力」はひどく衰えているのかもしれない◆がんなど重い病気の治療で、高くなった医療費の支払いを抑える高額療養費制度の負担上限引き上げをめぐる曲折。3年にも及ぶ軍事侵攻を終わらせようと、なぜか「加害者」側とだけでこそこそ始まる交渉…。当事者をかやの外に置いて、都合のいい声にばかり耳を傾けているように見える◆谷川俊太郎さんの詩「みみをすます」の一節が胸をよぎる。〈ひとつのおとに/ひとつのこえに/みみをすますことが/もうひとつのおとに/もうひとつのこえに/みみをふさぐことに/ならないように〉◆耳がとらえた音がすべてとは限らない。切実な声もまた、耳だけで聞こえるわけではない。(桑)
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