〈親思う心にまさる親心きょうのおとずれなんときくらん〉。吉田松陰の辞世の一つとして知られるこの歌には、志半ばにして人生に別れを告げる自身の無念さと、わが子に先立たれる親を思っての悲しみが詰まる◆子どもが離れて暮らし始めた親にとって、心配の一つは健康。土産はいらない。元気に過ごしていることが何よりの親孝行と思うようになる。その便りを聞くこともなく他界したこの人の悲しみは察するに余りある◆有本明弘さんである。娘の恵子さんが北朝鮮に拉致されてから42年。再会の願いがとうとうかなわないまま、96年の生涯を閉じた。拉致被害がなければひ孫に囲まれていたかもしれない年齢である。これ以上の理不尽はない。そう思っていたらタイ当局が今月中旬、ミャンマーとの国境付近で16歳の日本人少年を保護した。犯罪組織に連れ去られ、特殊詐欺に従事させられていたとみられる◆日本で増え続ける特殊詐欺被害の裏に、北朝鮮のような拉致があったことに背筋が寒くなる。甘い話には落とし穴がある。少年は結果的に犯罪への加担を余儀なくされたが、きっとやり直せる。その歩みを支える親の姿が想像できる◆有本明弘さんの死去により、帰国していない拉致被害者の親で存命は横田早紀江さん(89)だけになった。親心に寄り添う政治の力を願うしかない。(義)

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