櫻馬場の様子を紹介した当時の絵はがき(1918~1933年間発行)

 吉野ヶ里町目達原地区は前回紹介した「目達原敵討ち」物語が伝わる名所として知られていましたが、大正時代には旧長崎街道沿いに約八丁(約872メートル)にわたって続く桜並木が「目達原の櫻馬場(さくらのばば)」と称され、桜の一大名所として多くの人々に愛されました。

 この名所について、当時の三田川村が発行した「目達原櫻馬場案内記」には次のような経緯が紹介されています。

 目達原櫻馬場は古くより目達原松原と称して佐賀東部における名所の一つに数えられ、道路の両側には老松の巨木が枝を伸ばして絶景が広がっており、行き交う旅人の疲労を忘れさせていた。

 明治維新後、目達原松原は保存林に編入されていたが官有林野の整理に伴い、数千株の老松は伐採され畑地として地域へ払い下げられることになった。その後、三田川村と有志らが計画を立ち上げ、大正天皇の即位・御大典記念として大正5(1916)年2月に日本固有の桜を選んで道の両側に植樹を行い、かつての松原に代わって名所になるようにと地域住民らが一致協力して育て、花より花に続く桜の一大トンネルが完成した。

 「花見客は年ごとに増える中、地域住民らが協力して園域を広げ、鑑賞樹木を植えたり湖沼を設けて景観を整えるなど四季を通じて楽しめるように取り組んでいる」ともあり、官民挙げて整備した桜の名所は大いに好評を博し、多くの見物客でにぎわったようです。(地域リポーター・田中健一=鳥栖市儀徳町)