旧岸川商店の建つ唐津市魚屋町は唐津城築城時の町割で町田川の右岸に位置します。江戸時代、藩の保護を受け、この町の魚屋は無税でした。大店(おおだな)が多く『佐賀県の地名』によれば明治30年代の唐津の長者番付の大半を魚屋町で占め、町税の3分の1を負担していたとか。
岸川欽一の随想によれば、祖父の善七は小城大手町で砂糖雑穀商を営んでいた岸川家の出で、1885(明治18)年に分家し長男・善太郎を伴い魚屋町に移住しました。南北に2棟続く漆喰(しっくい)塗の重厚な外観は、向かいに建つ旧東木屋とともに歴史的な町並みの品格を残す一角として貴重な景観を保っています。
善太郎は事業をさらに発展させ、1918(大正7)年、福田慶四郎と佐賀市に東亜化学工業を創立。後に佐賀商工社長、東洋建築社長、唐津銀行監査役、伊万里実業銀行監査役を務め、草場猪之吉らと北九州鉄道や港湾の整備など地域貢献にも力を注ぎました。
1940(昭和15)年に唐津市長に就任。市政の困難な戦時に力を尽くしましたが、1946年にGHQによる公職追放令により辞任を余儀なくされ、翌年70歳で亡くなりました。
善太郎の長男・欽一は4人の子の教育費を捻出するため魚屋町の建物を信頼の厚い番頭に売却。建物は脇山商店となりました。
近年、この建物は「ギャラリー魚や町」「カフェ野いちご」と変遷を経て株式会社SAKIが購入。建物の傷みのある所に大きく手を入れ「旭や」となりました。月に一度は子ども食堂として開放しており、これまでにない唐津の社交場の誕生を予感させてくれます。
文・菊池典子
絵・菊池郁夫
(NPOからつヘリテージ機構)
◇「たてものがたり 唐津建築遺産」は今回で終了します◇