私がこの本に初めて出会ったのは、小学6年生の頃でした。私は、小学生なりにこの本をどうにか理解してみようと試みましたが、現実とひどくかけ離れた収容所での出来事や描写がただただ恐ろしくて、本と向き合うのをやめてしまいました。そして、この夏にやっとこの本と向き合う覚悟を決め、1ページ目を開きました。

 「夜と霧」はヴィクトール・E・フランクフルの作品であり、彼自身のナチス強制収容所での経験を元に書かれた重要な文学作品です。ナチスの強制収容所で何百万人もの人々が悲惨な状況下で生活し続ける実態を描写しています。フランクフルは、収容所での生活の厳しさ、身体的・精神的な虐待、人間性の欠如、そして死の不条理さを非情に描き出しています。それでもフランクフルは、絶望的な状況でも人間は希望を持ち続けることができるという信念を示しています。家畜用の貨車に詰め込まれ、アウシュビッツに移送され殺害、餓死という死の恐怖が目の前に迫ってきていたとしても、その状況に負けない人間の意志の力や個々の内面の強さを強調しています。

 「どんなに悲惨な状況にあっても、あなたがどんな人間になるかは、あなた自身が決めることができる」

 私が一番心に残った言葉です。この言葉からは、苦悩と絶望の中で人間として生きることへの希望が感じられます。人間は、世の中の理不尽や不条理を踏み台として成長することができると知りました。

 殺伐とした苦役や拷問の中で生死を分けた要因は、身体の強さではなく、未来への希望の存続にあると、フランクフルは言います。思い出したくないであろう収容所での出来事を鮮明に描き、世に出し、生きている全ての人に勇気と感動を与えるという実際に収容所に入ったことがある人のみができる使命を全うすることが、フランクフル自身の生きている意味にもつながったのではないかなと思います。

 私がこれまで読んできた強制収容所に関する本は全て個人に焦点を当てたものではなく、強制収容所で行われた残虐非道な行為や被収容者同士の争い、犠牲者など歴史の一部・過去の出来事として語られているものばかりでしたが、「夜と霧」は違います。人生に絶望しながらも過酷な労働に耐えた後、皆で夕日を見て感動する描写や皆で励まし合い生きぬいていく描写など人権さえも剥奪され、明日生きれるかの保証もない被収容者たちの中に光る美しい心をリアルに描いています。

 私がもし誰かにこの本を読んでの感想を求められたらこう言います。

 「どう消化したら良いか分からない」

 まだこの歴史ある世界を十数年しか生きたことがない私は、この本に書いてあること全てを吸収することができません。ですが、ただの美談として終わらせてはいけないことだけは分かります。「感銘を受けた」「考えさせられる」といった言葉だけでは片付けることの出来ない何かがこの本にはあるような気がします。

 今、社会では「人間はこの世の生物の中で一番欲深く、愚かで醜い動物」などと耳にすることがあります。ですが、私はそうは思いません。生きるか死ぬか。その絶望的状況の中でも光を見いだそうとする人間の姿を、やはり美しいと感じます。助け合い、支え合いながら生きていくことの素晴らしさを改めて感じることができました。また、収容所から解放された後もそれを帳消しにする幸せは無いという事実が、今の現代社会で起こっているイジメの世界と重なって見えました。表面上は解決したように見えても被害者が受けた心の傷の深さは、私たちが到底計り知ることができないものなのだろうと痛感しました。

 私が今まで努力してこれたのは、自分の将来、つまり自分の幸せのためでした。でも、フランクフルの体験を言葉を聞き、誰かの幸せこそ自分を真に幸福にしてくれるのだと気付かされました。私はこの16年間の人生の中で「辛(つら)い。もうやめてしまいたい」。そう思うことがたくさんありました。これからの人生、もっと辛いことも経験するはずです。その苦しさも大切に抱え、悩み続けながら、今すべきことは何かを常に考えながら生きていこうと思います。人生に何を期待するか、ではなく人生から何を期待されているのか。自分の経験は決して誰にも奪えません。これから壁にぶつかり続けるたびに私はフランクフルの言葉を思い出すでしょう。

 「私たちがなすべきことは、生きる意味を問うことではなく、人生から問われることに全力で応じることだ」

 この言葉とともに、私はこれからも自分の人生に向き合い続けたい。