神埼市脊振町に建設される国直轄の「城原川ダム」事業で、水没予定地区住民側と国交省が補償を巡る基準協定書に調印した。1971年の予備調査開始から半世紀余り、治水目的の巨大公共事業は紆余(うよ)曲折をたどった。「脱ダム」などの厳しい視線も注がれ、政権交代も経験した。沈む地域の住民を訪ね、揺れ続けた地元の思いを振り返る。 (樋口絢乃、中島幸毅)

城原川ダムの水没予定地域に当たる神埼市脊振町岩屋地区(左)と政所地区(右)=2023年2月、ドローン空撮

「脱ダム」波紋、政権交代で再検討… 紆余曲折を経て建設へ

 国が予備調査を始めたのは1971(昭和46)年にさかのぼる。当初は、洪水の調節と、都市用水を確保する「多目的ダム」が構想された。水没予定地域として網がかけられた岩屋、政所などの地域では住民組織がつくられ、受け入れの可否を巡って意見が割れた。「建設推進か、反対か」で地元は揺れ続け、計画は進まなかった。

 旧建設省は97年度、「足踏みダム」にリストアップした。2000年には、公共事業の抜本的見直し対象となり、中止・縮小の候補に。自然環境などへの負荷を懸念して長野県の田中康夫知事(当時)が宣言した「脱ダム」の波紋も広がった。

 01年には、最大の利水者である佐賀東部水道企業団を構成する佐賀市や神埼郡の13市町村が「ダムの水は不要」と指摘した。財政負担と見合わない水がめは不要と公式に打ち出された。「30年苦しんで協力してきたのに」。水没予定地域の住人は計画の行方に振り回される状況が続いた。