藩政期、現在の基山町全域と鳥栖市の北東半分は、1871(明治4)年7月の廃藩置県に至るまで対馬藩宗家の領地で「対馬藩田代(たじろ)領」と称した。筑前、筑後、肥前の三国に囲まれ、領内を長崎街道、薩摩街道が通る交通の要衝でもあった。
この地で江戸時代中期頃から始められた配置売薬業は越中富山(富山県)、近江(滋賀県)、大和(奈良県)と並び日本四大売薬の一つに数えられた。
売薬業者たちは共通の利益を守り、営業上の弊害を是正するため1886(明治19)年、田代売薬同業懇話会を結成し「売薬規則」改正の請願運動などを展開した。
1923(大正12)年には基山、田代、鳥栖、基里、麓の売薬業者の参加を得て、「肥前売薬業組合」を設立する。肥前売薬業組合は組合員の1925(大正14)年の売り上げ状況を、同組合を勧進元に「番附表」の形で広く公表した。(地域リポーター・久保山正和=基山町小倉)