鹿島藩唯一の勤王の志士とされる八沢棣之進の墓前に案内板が設置されたことを喜ぶ武富孝子さん(左)と中村雄一郎さん=鹿島市浜町の泰智寺

 幕末の鹿島藩士・八沢棣之進=ていのしん=(1839~69年)の墓がある鹿島市浜町の泰智寺にこのほど、八沢の生涯を紹介する案内板が設置された。藩主鍋島直彬(なおよし)の命に背いて脱藩し戊辰戦争に従軍したため、長らく知られていなかった功績を再評価する機運が高まっており、鹿島藩唯一の勤王の志士とされる八沢の生涯を観光客などにも伝えていく。

 鹿島藩藩医の家系に生まれた八沢は、1868(慶応4)年に鹿島藩の戊辰戦争出征に従軍した。途中の京都で、鹿島藩は佐賀藩の命で長崎巡見のために鹿島に戻ることになったが、尊王攘夷(じょうい)の志を持っていた八沢は承服せずに脱藩。新政府軍の嘉彰親王に従って北越戦線に、軍曹として後方支援などを担った。

 だがその翌年、戦地から京都に凱旋(がいせん)した後、病気のため31歳で亡くなった。朝廷は八沢の功績を評価し、志士が眠る京都の東山招魂場(霊山護国神社)に埋葬し、遺髪は泰智寺に葬られた。

 八沢の再評価の動きは、2018年の明治維新150年を機に強まった。鹿島市の記念事業で、同市民図書館学芸員の高橋研一氏が八沢の生涯を詳細に記録した書籍を発行。昨年には泰智寺の裏山にあった墓が、山門前に移設された。

 八沢の親類に当たる武富孝子さん(80)=同市=は「墓が移設されて、案内板もできたので、ようやく八沢の功績を広く知ってもらうことができる」とほっとした表情を浮かべた。地元の「肥前浜宿水とまちなみの会」の中村雄一郎事務局長は「観光客にも鹿島の歴史として案内してきたい」と話した。(山口源貴)