国指定特別史跡・吉野ケ里遺跡(神埼市郡)の北墳丘墓西側の「謎のエリア」で出土した石棺墓(せっかんぼ)の石ぶたに関して、佐賀県は6日、多良岳産のカンラン石玄武岩だったと明らかにした。4枚見つかった石ぶたのうち3枚が一枚石を割ったものと判明。重さ約400キロの石材を約40キロ離れた山地から舟で運んだとみている。こうした例は極めて珍しく、弥生時代の葬送儀礼や運搬の在り方などを考える重要な材料になるとしている。
石棺墓は、吉野ケ里で初めて見つかった、弥生時代後期~終末期(2世紀後半~3世紀中頃)の有力者のものとみられる。石ぶたの石質は、佐賀大教育学部の角縁進教授(岩石学)が鑑定した。青灰色の硬めの石で、弥生時代には石斧(せきふ)などに使われている。
近くの脊振山にある花こう岩を使わず、遠くから運んできたことに県文化財保護・活用室は「石材としてのブランド価値、呪術的な意味、多良岳が信仰の対象、などの理由が考えられる」と読み解く。古墳時代には熊本県から、阿蘇溶結凝灰岩が大和政権に関わる石棺の材料として畿内まで運ばれており「重いものを苦労して運ぶからこそ権力者の証し。被葬者が特別な人だったことは間違いない」と指摘する。
輸送手段は、吉野ケ里の湿地帯から弥生時代後期の舟形木製品(ミニチュア)が見つかっていることを引き合いに「舟自体の出土がないため断定できないが、縄文時代から使われていた丸木舟では」と推測する。
石ぶたは、裏側に線刻があった北西側の1枚を裏返すと、南東側にあった1枚と断面が合致することが判明。石をまたいで刻まれた「×」「―」などが6カ所見つかったことも決め手となった。「長い線を丁寧に刻んだ後がみられ、絵のようにも見える」という。
同日、会見した山口祥義知事は「1800年前にどうやって運んだのか。交易があったことにも驚かされる」と話した。「謎のエリア」の発掘再開は9月ごろで「大発見の可能性はまだ残されている。関心を持ち続けていただきたい」と呼びかけた。(大田浩司)