江戸後期の「異国使節来朝図」(県立図書館所蔵)に描かれたバツテイラ

 長崎海軍伝習に参加していた佐野常民(栄寿左衛門)は、安政3(1856)年、三重津に集積されていた木材のうち、蒸気船建造用に適さないものを選んで長崎まで取り寄せて、海軍伝習稽古の一環として「バツテイラ」という小船を製造しました(ちなみに、サバの押鮨(おしずし)の「バッテラ」は、形がこの舟に似ていることから名付けられたと言われています)。

 これは、出島のオランダ人が作った「バツテイラ」に試乗した常民が、この舟の小回りが利いてスピードも出る点に着目し、ぜひ自分たちでも作りたいと希望して実現したものです。常民ら伝習生は、オランダ人船将の指導の下、精煉方からタール・銅板・銅釘を取り寄せるなどして製造に当たりました(鍋島家文庫「佐野栄寿左衛門海防ニ関スル意見書」)。

 その後、この「バツテイラ」は完成し、実際に長崎で佐賀藩伝習生らの稽古に使われていましたが、翌安政4(1857)年には、船底の板などが破損して運用できなくなり、佐賀藩からの修繕費用の目途(めど)が立たないまま、放置されていました(千住家文書「御内見」)。

 なお、この時、常民の下で「バツテイラ」製作に携わった村田家大工棟梁の原庄兵衛は、後に久保田でもこれを製造し、家中でも稽古に使いました(「永松家系譜」『幕末維新永松七郎助史料集』)。

 (佐賀市地域振興部文化財課・大平直子)