多久八幡神社「二の鳥居」建立に関する御屋形日記の記述=多久市郷土資料館

 佐賀藩多久領の役所日記「御屋形日記」(県重要文化財)を現代の活字に起こしている「多久古文書学校」の活動展が多久市郷土資料館で開かれている。御屋形日記の記録から、多久領だった砥川谷村(現小城市牛津町砥川谷地区)を拠点に九州北西部一帯で活動した石工集団の足跡をたどっている。7月2日まで。

 同資料館蔵の原本を展示し、石工たちの暮らしぶりなどを分かりやすく紹介している。1759年当時の石工70人の名前が記載されているのをはじめ、72年の日記には、佐賀本藩の出稼ぎ禁止令に対し石工たちが「従来通り認めてほしい」と多久役所に訴えた記述も。石工たちの生活を心配した役所は後日、「緩やかな禁止」の裁定を下した。

 多久八幡神社の「二の鳥居」建立に関する1825年の日記には、多久の儒学者草場佩川に銘文の作成が命じられ、石工の名前を彫り添えるように書かれている。同神社に現存する鳥居には「石工 正木孫右衛門因榮」と刻まれており、古文書の内容と一致する。

 古文書学校は1980年に開設され、市民会員が難解な崩し字を現代の文字にする「翻刻(ほんこく)」に取り組んでいる。(市原康史)