災害対策事業の完了を記念して1995年8月に除幕式が行われた六角川治水碑=武雄市北方町志久

 武雄市北方町志久の椛島橋のそばに立つ「六角川治水碑」。1995(平成7)年8月、5年間に及ぶ災害対策事業の完了を記念して建てられた。

 きっかけは90(平成2)年7月1日から降り出した雨。六角川流域では総雨量400ミリから500ミリ、翌2日未明からの6時間だけで284ミリ(矢筈観測所)という記録的な大雨だった。六角川は至る所で水があふれ、濁流はまちに流れ込み、流域市町で浸水家屋8686戸、浸水面積1万430ヘクタール、被害総額484億円の大水害となった。

 当時、武雄北中の教諭だった上野正昭さん(87)は勤務先から北方町大崎の自宅に戻ると、室内は膝上十数センチまで浸水していた。「近くの道路が冠水することはあっても、家の中まで入ってくることはなかった」と振り返る。

 建設省(当時)は水害を防ぐため、六角川水系の中上流部約41キロの区間を「直轄河川激甚災害対策特別緊急事業」に採択。90年から94年まで330億円をかけて堤防のかさ上げや橋の架け替えなどを行った。95年の碑の除幕式について佐賀新聞では、関係者約60人が出席し、六角川改修期成同盟会会長で武雄市長だった石井義彦氏が「今後も水害のない安全な街づくりを進めていきたい」とあいさつした、と報じている。

水との闘い、30年後の今も
 しかし、令和の時代に入って水害が繰り返し起こった。2019年8月28日の佐賀豪雨は時間最大雨量101ミリの大雨が降り、武雄市内で1536戸が浸水。21年8月11日からの記録的大雨では時間最大雨量が78ミリだったものの、9日間降り続き同市内の浸水家屋は1762戸にのぼった。

 碑が立つ北方町焼米地区の住民からは「堤防は高くなってもJR佐世保線の複線化や国道34号バイパスの工事で雨水の行き場がなくなった」と開発の影響を指摘する声もある。六角川流域の6市町では流域治水協議会をつくり、緊急時に水を上流部でためる取り組みを始めた。

 武雄市は今年3月、市内を流れる六角川の流域で開発に規制を課す「特定都市河川」の指定を受けた。碑のそばの椛島橋から上流が対象エリアになった。水との闘いは碑ができてから約30年たった今も続いている。(澤登滋)