軽やかな時節となった。
日々早まる日の出と延びる日没時刻。爽快な風や草木萌(も)える里山。シャツ1枚で過ごせる心地よさに年がいもなくワクワクしてしまう。玄界灘より虹の松原を吹き抜ける風をして「薫風」という季語が腹落ちしたのは20年前の私の唐津初訪、2003年5月3日のことであった。以来、唐津に魅せられ、往訪数は数え切れず。その間に多くの方々と交流することができ、今をもって親しく学ばせていただいている。なんともありがたいことである。
さて…出社制限による、狭っ苦しいマンションでのテレワークのはじまりは2020年2月。罹り患かん者数を告げるニュースや重なる緊急事態宣言、さらには家族や自身の罹患…前代未聞のコロナ禍を超え、規制三昧(ざんまい)の日常に別れを告げる時が来た。あるべき自由を得た2023年、数えて11回になる唐津やきもん祭りがはじまる。マスクから解放されての実施。嗚呼(ああ)、ようやくに、である。
唐津焼の“今”を創り出している作家たちがこぞってまちなかに店を構え、お客さんとやきもん談義を繰り広げる。売買はもちろん、その流れで地酒を酌み交わす…そんな作家と使い手の「唐津焼真ん中なコミュニケーション」。やきもん好きにはたまらないし、そうでなくとも唐津が好きになるきっかけがここにある。敬愛する骨董(こっとう)商、勝見充男さんは「唐津は本当に良い。人に、器、地の酒、そして肴(さかな)に酔うんです」とことあるごとにおっしゃる。唐津やきもん祭りが“やきもん基点で唐津の良さを体感できる一番のイベント”であることは言わずもがな、である。
「ご自身が作られた器でお酒を呑(の)んだりするんですか?」
「はい。酒器であれば呑み過ぎちゃったら合格点、って自分基準があります。この斑(まだら)唐津の盃さかずきでは二日酔いしました」
「では、買います!」…これは私が実際に目の当たりにした唐津やきもん祭りでの作家とお客さんのワンシーンである。数年ぶりのこんなやりとりがそこかしこでみられることだろう。想像するだけでうれしくてたまらない。
唐津やきもん祭りは唐津焼を愛する方々がそれこそ手弁当で試行錯誤を繰り返し、企画運営を行ってきたイベントである。そして今やゴールデンウイークの唐津の定番となった。佐賀や福岡をはじめ近隣はもちろん遠く首都圏、中部東海、そして京阪神からも多くのやきもん好きが新たな器との出会いを求め唐津にやってくる。これは地域活性化の成功事例としては稀有(けう)なものといっても過言ではないだろう。
唐津焼は桃山時代の、豊臣秀吉による朝鮮出兵、いわゆる文禄慶長の役によって生まれたやきもんである。かの地のおける乱捕り(略奪)によって唐津の地に連れてこられた朝鮮半島の人々が生きていく糧として唐津焼を編み出した。それらは巡り巡って茶道において賞せられ、また市井においても支持を受け、日本初の施釉陶器として歴史に名を遺のこした。だがその盛隆は30年と続かずに磁器にその座を奪われてしまう…こういったストーリーを想(おも)いながらやきもん祭りに参加することも意義があるのではないでしょうか? 唐津市内にはその町割りに桃山時代の名残が色濃く漂い、同時代を偲(しの)ぶことができる唐津城跡をはじめさまざまな史跡がそこかしこに。また名護屋まで足をのばせば壮大な名護屋城跡や数多の陣跡に秀吉やそこに集った武将たちの息吹を間近に感じることが可能だ。仕事柄日本全国さまざまなまちに関わっているが唐津ほど地域資源に恵まれたまちはない。
藤の花が盛りを迎え、木々の息吹が強い。
今年、やきもん祭りに参加できないが「トラベリング・ウィズアウト・ムービング」。古唐津の盃(さかずき)でさがん酒をやりながら唐津に思いをはせ、盛会を祈念したい。
むらた・まさとし 1966年、東京都町田市生まれ。ポニーキャニオン・エリアアライアンス部長としてエンターテインメント見地による地域活性化事業をプロデュース。古唐津、佐賀の風土に魅せられ、メディアを通じてその魅力を発信している。古唐津研究交流会会員、旧白洲邸・武相荘クリエイティヴディレクター。東京都世田谷区在住。
サカズキノ國は、村多さんと古美術店主の勝見充男さんが、唐津の器と佐賀の魅力をテーマにつづったリレーエッセー。2019年10月から2年間連載しました。4月29日から5月5日まで開催される唐津やきもん祭りに合わせ、寄稿してもらいました。