松浦川左岸に通じる運河に隣接して宮島商事の建物が建っています。水色の下見板張のこの洋館は、8世宮島傳兵衞(でんべえ)(徳太郎)が役員をしていた北九州鉄道(現JR筑肥線)の社屋として建てられました。鉄道免許の申請が行われた1916(大正5)年6月、唐津銀行の監査役・池田市五郎が敷地を取得。建物はこの年から本社屋として建設されたと思われます。
難工事の末、博多と唐津を結ぶ北九州鉄道は開通しましたが、松浦川を渡らず右岸に旧東唐津駅が建ち本社は駅前に移りました。1937(昭和12)年、北九州鉄道は国鉄に吸収。バス部門が独立し、この建物は北鉄自動車本社社屋になり4年後、昭和自動車になりました。
第2次世界大戦中、宮嶋商店は存亡の危機にありました。昭和17年、9世傳兵衞(甲子郎)が急逝。東京帝国大学に入学して半年の長男・潤一郎が20歳で10世傳兵衞を継ぐことになったのです。翌年、学徒出陣の招集を受け、傳兵衞は学生と社長、陸軍上等兵の3役をこなすことになりました。
甲子郎の弟で専務の庚子郎も昭和19年、45歳で再招集。久留米、鹿児島、宮古島と配置されるさなか、この土地と建物を取得。甥おいも自分も帰らなかった際の宮嶋商店の人事と経営について克明に遺書に示して出征しました。
戦後、宮嶋商店は宮島醤油と宮島商事に分離。宮島商事では火薬・不動産・事務機器の3部門を担っています。火薬は現在も石灰石や玄武岩のトンネル掘削のため長崎県福島、山口県宇部など各地に提供されています。宮島商事本社社屋は今も唐津の交通と産業の変遷を映し出す近代産業遺産なのです。
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文・菊池典子
絵・菊池郁夫
(NPOからつヘリテージ機構)