今から200年前、佐野常民は文政5年12月28日(1823年2月8日)年の瀬の厳寒期、佐賀郡川副郷早津江津の地に佐賀藩士下村三郎左衛門充贇みつよしの五男として生まれ、鱗三郎と命名されます。
この地は、佐賀城下から南東へ直線で6キロ、早津江川が南へ大きく蛇行する西岸の河港に位置し、そこは藩の津方役所があり外港的役割を担っていました。父下村充贇は、津方役人の一人で貿易や財政に係わる会計方の仕事に従事しており、若き十代藩主直正の企図した財政の立て直しの第一線で活躍し成果をあげました。佐賀藩の村々では士分の者が農業や漁業を営んで居住するのは普通のことでした。
下村家の親戚で佐賀城下枳小路の外科医、佐野常徴孺仙(じゅせん)に子が無かったので天保3(1832)年、数え年11歳の鱗三郎は養子となり、立派な医者となることを期待され栄寿と名乗ることを許されました。孺仙は九代藩主斉直に仕え、嘉永4(1851)年からの「医業免札姓名簿」には水町昌庵、牧春堂の次に記載されるほどの藩医でした。
実父も養父も藩士としては上級の家柄ではありませんが、藩主の側近として仕えました。
大正15(1926)年に、常民の生家跡に日本赤十字社が創立50周年の事業として記念碑を建立。昨年12月の佐野祭では、佐野常民顕彰会により、生誕200年を記念して、モニュメントの除幕が行われています。
(佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館館長・諸田謙次郎)