「思い通りにいかない時に、どのように考えればいいですか?」という相談を受けることがあります。思い通りにいかないことが何かあり、それについてどう受け止めるべきかとお悩みなのだと思いますし、それはよく分かります。私たちは日々、思い通りにならないことばかりと出くわすからです。

 この質問に心理学的な、または気が楽になるポジティブな返答というのはもちろんあるのでしょう。しかし、最終的には切り替えて次に進まなければどうにもなりませんし、立ち止まる暇もないので、実際には次に進むというより、押し出されて次の思い通りにならないことにぶつかるという繰り返しです。

 悩みとして語る時、私たちは思い通りにならないことを嘆くのですが、思い通りになる、予測通りに進む間には、嘆くこともなく気にもとめません。しかし、よく考えてみるとこれまで何か本当に思い通りになったことがあったでしょうか。努力の結果が実る、予測が当たるなどは思い通りになったように見えますが、それは単に思ったから願ったからそうなったわけではなく、それもたまたまいろいろな要素の関わり合いの中でそうなったにすぎません。結果が自分にとって都合が良かったか、そうではなかったかというだけのことです。

 私たちは、誰一人として生まれようと思って生まれたわけではなく、人間を選んだわけでもありません。生まれる場所も時代も家庭も境遇も性別も身体も見た目も何も選べず、“ただ、気づいたらここに居た”というスタートを切りました。これは誰一人例外なくみんながそうです。そのスタートも結果的に都合の善し悪しで語られることになるにせよ、思い通りでないということは間違いありません。もともと、みんな思い通りではないのです。世の中は私の思いで成立してもいませんし、まわってもいません。他の誰かの思いでまわっているわけでもありません。みんながただ思い通りにはならない中をそれぞれ精いっぱい生きていっているだけです。

 思い通りにならないということが苦悩そのものですが、この世界はそもそも誰にとっても思い通りになる世界ではないということを忘れず、自分が都合よくいっている時にも、思い通りにならず苦しんでいる人がいることを思えるようにありたいと願っています。(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)