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明治維新と有田焼 貪欲に先端技術を追求

有田陶片物語

2017年03月20日 08時38分

応法猪子谷単室窯跡(町史跡)。明治になると、燃料に薪を用いる登り窯に代わり、西洋の技術に基づく石炭窯も築かれるようになった
応法猪子谷単室窯跡(町史跡)。明治になると、燃料に薪を用いる登り窯に代わり、西洋の技術に基づく石炭窯も築かれるようになった

 来年の2018年は、徳川幕藩体制が崩壊し、日本が新たな中央集権の国として生まれ変わった「明治」改元から、ちょうど150年。国においても関連施策の推進が決定され、これに応じて佐賀県でも「肥前さが幕末維新博事務局」を設置し、国と一体となって取り組む姿勢が示されている。

 明治維新と有田焼。万国博覧会出品などに象徴される、華々しい海外輸出との関連で語られることは珍しくない。ただ、それまで250年以上にわたりほぼ形を変えなかった生産現場の姿が、最も大きく変容したのも明治なのである。

 有田は、磁器生産における絶対的な中核地として、長らくその生産技術を外部から隔離する一方、高い自尊心もあって、外部からの技術も受け入れない姿勢を貫いてきた。ところが、明治に全国への往来が自由となり、他の窯業地の状況が明らかになるにつれ、「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」ではないが、世の中ははるかに進歩していたことを痛感させられたのである。今日では、ごく一般的な棚板積みや匣鉢(こうばち)を積み上げる窯詰め技法は、瀬戸や美濃など東海地方の窯業を範としたものであるし、化学合成の呉須や石膏(せっこう)型など、西洋の技術を受け入れたものも多い。

 ベースとなる本来の技術や精神は受け継ぎつつも、貪欲に先端技術を追い求めた有田焼。この明治維新は、有田の窯業の維新にもほかならないのである。

(有田町教育委員会学芸員・村上伸之)

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