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さが維新前夜(32) 洋式海軍の始動 自力で修理、技術蓄積

2017年08月12日 14時25分

早津江川沿いで発掘された三重津海軍所のドライドック跡。深さは約4㍍あり、木材を枠状に組み合わせた特殊な工法で造られていた=2011年12月、佐賀市川副町(佐賀市教育委員会提供)
早津江川沿いで発掘された三重津海軍所のドライドック跡。深さは約4㍍あり、木材を枠状に組み合わせた特殊な工法で造られていた=2011年12月、佐賀市川副町(佐賀市教育委員会提供)
三重津海軍所のドライドック復元模型。潮の干満を利用して水を排出し、船底などを修理した=佐賀市の佐野常民記念館
三重津海軍所のドライドック復元模型。潮の干満を利用して水を排出し、船底などを修理した=佐賀市の佐野常民記念館
三重津海軍所のドライドック跡で当時の様子を説明する佐賀市文化振興課の中野充さん。遺構は保存のために埋め戻されている=佐賀市川副町
三重津海軍所のドライドック跡で当時の様子を説明する佐賀市文化振興課の中野充さん。遺構は保存のために埋め戻されている=佐賀市川副町

 佐賀市川副町を流れる早津江川。公園が整備されている右岸の河川敷には幕末に、洋式海軍の訓練所が存在した。世界文化遺産に登録された「三重津海軍所」跡。保存のために埋め戻されているが、蒸気船を修理するためのドライドック(乾船渠(かんせんきょ))の遺構がある。

 三重津には17世紀中頃から、佐賀本藩や3支藩の和船を管理する「船屋」という施設があった。船屋は伊万里や長崎などの領内に6カ所あり、三重津は約30隻を担当したという。

 佐賀藩がこの地で蒸気船を建造する計画は嘉永年間に持ち上がった。長崎警備を強化していた時期で、安政元(1854)年には着手し、材料の木材を集積するなど準備を進めたが、肝心の技術が伴わず本格的な着工には至らなかった。

 海軍所の前身に当たる「御船手稽古所(おふなてけいこしょ)」が三重津に設置されたのは安政5(1858)年。洋式海軍の水夫を養成する訓練所として選定された。佐賀市三重津世界遺産課副課長の前田達男さん(55)は「船屋の中でも佐賀城下に近く、洋式船を停泊させる十分な広さと深さがあったため選ばれた」と説明する。

 佐賀藩にとっては、オランダ製の蒸気船「電流丸(でんりゅうまる)」を購入したこともあり、船を操る人材育成は急務だった。士官は幕府の長崎海軍伝習所で養成できたが、船を実際に動かす水夫は自前で育てるしかない。多いときは数百人が訓練に臨んだとみられ、「海」「舩(ふね)」といった文字が記された専用の食器など生活用品が跡地から多数出土している。

 翌年、長崎の伝習所が閉鎖されると、士官の養成も担うようになる。さらに万延元(1860)年には、洋式船3隻の運用開始に伴い、その管理も手掛けるようになった。費用がかかる船の修理は外注せず、自力で取り組むようにした。

 ドライドックは、水を抜いて船底やスクリューを修理する施設で、三重津では訓練所の南側に建設された。長さ約60メートル、幅約25メートル、深さ約4メートルで、全長約45メートルの電流丸も収まる広さだった。有明海の干満差を利用してドック内の水を排出する仕組みだった。

 ドックは従来、海岸沿いの固い岩盤をくり抜き、石積みで造られてきた。干拓地の三重津は軟弱地盤で、重量がある石積みを支えられなかった。そのため、河川敷を掘り下げた両側の壁に、木材の枠組みを階段状に組み上げる特殊な工法で建設した。枠の内部に水はけのいい砂と水を通さない粘土を交互に積み重ね、船を支えるために十分な強度と高い排水性を実現した。

 三重津海軍所跡を調査している佐賀市文化振興課の中野充さん(50)は「同様のドックはほかにない。佐賀は奈良時代以前から続く長い干拓の歴史があり、地域に根差した技術を用いて試行錯誤を重ねながら造ったのだろう」と推測する。ドックの完工時期は不明だが、文久元(1861)年秋に電流丸の船底の銅板を張り替えたという記録があり、この時期までには完成していたとみられる。

 船の修理に使う部品は併設された製作場で作られた。ここには精煉方(せいれんかた)の技術者だった田中近江(おうみ)(久重)、儀右衛門父子が出張し、交換が必要になった電流丸の蒸気釜(ボイラー)の製造に取り組んだ。佐賀藩の決済などを記録した「請御意下」によると、修理見積もりは約6千両。佐賀藩の軍関係の記録には「鍛冶など多くの職人を集めた」とあり、日本初のボイラー製造に総力を挙げて挑んだ様子がうかがえる。

 技術面の苦心ぶりは発掘品から分かってきている。製作場跡からは、ボイラー用の鉄板を接合するためのリベット(鉄鋲(てつびょう))が多数出土しているが、鋲の頭が不自然に切り落とされたものが多い。「技術や経験が不足してうまく留められず、切り落としたのだろう」。中野さんは、失敗を繰り返しながら技術を向上させていった過程を想像する。

 技術は徐々に蓄積され、初の国産蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」の建造につながっていく。

 ■次回は、唐津藩主の名代を3年間務めた小笠原長行(ながみち)を取り上げます。

【地盤改良したドック】

 船舶の製造や修理の際に使われるドライドック。船を「盤木」と呼ばれる台に乗せた後、ドック内の水を排出することで、普段は水面下にあって触れられない部分も修理できる。

 水の排出は、三重津のように潮の満ち引きを利用した自然排水もあるが、一般的にはポンプを用いることが多い。水を抜いたドックには船舶の重さがかかる。軟弱な干拓地だった三重津では地盤を改良するため、貝殻をまいて補強した跡も見つかっている。

 現役で日本最古のドライドックは「横須賀1号ドック」。江戸幕府が慶応3(1867)年に着工し、明治4(1871)年に完成した。現在は在日米軍の横須賀海軍施設内にあり、米海軍や海上自衛隊の艦艇修理に使われている。

【=表】

17世紀中ごろ  佐賀本藩や3支藩の和船を管理する船屋を三重津に設置

1855(安政2)幕府が海軍士官を養成する長崎海軍伝習所を設置

1858(安政5)佐賀藩が洋式船の操船技術を訓練する御船手稽古所を三重津に開設。オランダに発注していた蒸気船「電流丸」が到着

1859(安政6)長崎海軍伝習所閉鎖

1861(文久元)三重津のドライドックで電流丸を修理

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