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さが維新前夜(11)古賀穀堂の具申

2017年03月18日 10時51分

古賀穀堂の日記「自強日録」。フェートン号事件直後の記述には、長崎の異称である「崎陽」、警備状況を評した「虚弱」などの文字が読み取れる(公益財団法人鍋島報效会所蔵)
古賀穀堂の日記「自強日録」。フェートン号事件直後の記述には、長崎の異称である「崎陽」、警備状況を評した「虚弱」などの文字が読み取れる(公益財団法人鍋島報效会所蔵)
古賀穀堂像(公益財団法人鍋島報效会所蔵)
古賀穀堂像(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

■改革の方向性極秘裏に

 英軍艦フェートン号が長崎に侵入した衝撃は、またたく間に佐賀藩内を駆け巡った。「今晩、長崎から飛脚が来た。長崎の人々は大騒ぎで、佐賀の城中でも会議が沸騰した」。事件発生翌日の文化5(1808)年8月16日、藩校弘道館の教授、古賀穀堂は日記にこうつづる。月をめでていた穏やかな夜は一変した。

 「危機は累卵のようだ」。2日後には、長崎警備の貧弱さ、これを容易に繕えない藩財政の不安定さを、積み重ねた卵に例えて憂う記述がある。佐賀藩士2人の引責切腹を知った9月には、さらに思い詰める。「藩の滅亡が眼前に迫る」

 穀堂は、幕府が江戸に設けていた昌平坂学問所で教え「寛政の三博士」に数えられた儒学者古賀精里(せいり)の長男。江戸で学び、30歳前後で佐賀の弘道館の教授に就任して以降は学校経営も担っていた。フェートン号事件は、教授になって2年目に遭遇した出来事だった。

 当時は9代藩主鍋島斉直(なりなお)の治世で、慢性的な財政難が深刻化していた。長崎警備の追加負担を余儀なくされ、将軍徳川家斉の娘盛姫を、息子の直正の正室に迎える費用もかさんでいた。

 斉直は本藩の財政再建を図るため、支藩の鹿島藩の廃止を企てたこともある。鹿島、小城、蓮池の3支藩には、参勤交代などの財政負担がのしかかっていた。これらへの財政支援は本藩にとっても重荷だった。

 こうした中、台頭した藩主側近が主導する政治が藩内に不協和音を呼ぶ。文政7(1824)年には、長崎警備の任を熊本藩に譲ろうと側近が画策して政変になり、翌年にこの側近が切腹を命じられた。

 外圧で顕在化した佐賀藩の構造的な問題に加え、藩の気風の乱れを見かねたのだろう。穀堂は、直正が10代藩主に就いた翌年の天保2(1831)年、産業振興の奨励や勤倹節約など、改革の方向性を記した意見書「済急封事」を出す。

 <御藩上下の弊風は、第一游惰(ゆうだ)と奢侈(しゃし)の二つなり>

 穀堂は意見書の中で、怠惰と過度なぜいたくを課題として指摘した。さらに、「嫉妬深く、優柔不断で負け惜しみばかり」という佐賀の「三つの病」をなくさなければ、大事業を成すのは難しいと切々と訴えた。藩政改革は「待ったなし」の状況と映っていた。

 文面には覚悟もにじむ。「内密にお見せしたものであり、ご覧になった後は速やかに火に投じるようお願いいたします」。直正が藩主になったとはいえ、まだ10代。実権は斉直が握ったままだった。具申は極秘裏に行わざるを得なかった。

 穀堂は立場を危うくするリスクを冒してまで、なぜ改革を訴えたのか。鍋島報效会(ほうこうかい)評議員の大園隆二郎さん(64)は「学問は政治に生かさなければ意味がない。そうした強い意志があったからではないか」と推測する。儒学者、教育者、政治家という三つの顔を持つ穀堂は、学問と政治を一体的に捉え、座学にとどまらない具体化を目指した。

 この姿勢は教授就任直後、教育改革を斉直に訴えた意見書「学政管見」にも見て取れる。弘道館教育の充実を軸に、蘭学の導入や医学教育機関の設立、遊学の制度化などを求めた。

 具体的な施策は斉直によって実行されることはなく、直正の代に持ち越された。こうした経緯もあり、斉直の治世に対する評価は決して高くはない。それでも、穀堂ら直正を支える人材を登用したことで、一連の改革の種をまいたともいえる。佐賀県立図書館近世資料編さん室室長の山口久範さん(57)は推し量る。「斉直は、有能さを見込んで若い穀堂を教授に抜てきし、直正の教育係も命じている。改革の必要性は感じていたはずだ」

 混迷を脱しない時期、窮状に拍車をかける大風が近づいていることは誰も知るよしがなかった。

■実学の重要性説く

 古賀穀堂は教育改革の意見書「学政管見」を鍋島斉直に提出した後、文政2(1819)年に直正の教育係になり、直正がいた江戸の佐賀藩邸に赴いた。

 藩邸には直正や江戸詰めの藩士、その子弟が武芸や学問に励む「明善堂」が建設された。穀堂は赴任から4年後に著した「明善堂記」で、「藩邸の人心を都会の悪風に染めさせてはならない」と訴えている。そのためには学問が必要だが、このごろは文章の修辞ばかりに熱心だと批判。実学の重要性を説き、「主君と民のために身をささげる所存だ」と決意を示している。

 こうした問題意識に加え、教育改革への意欲、若い直正に寄せる期待の高さが入り交じって、内面から突き動かされていたのだろう。同じ年に記した「弘道館諸君に与えるの書」では将来を展望し、直正については「必ずや天下の大人物としてご成長あそばされるだろう」と評している。

=年表=

1805(文化2) 鍋島斉直が第9代佐賀藩主に就任

1806(文化3) 古賀穀堂、弘道館教授に就任

          穀堂、「学政管見」を斉直に提出

1808(文化5) フェートン号事件

1819(文政2) 穀堂、鍋島直正の教育係に就任

1830(天保元) 直正が第10代佐賀藩主に就任

1831(天保2) 穀堂、「済急封事」を直正に提出

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