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さが維新前夜(10)フェートン号の侵入

2017年03月11日 10時29分

オランダ船の捕獲をもくろみ、英軍艦フェートン号が姿を見せた長崎港。奥の女神大橋の先に見える島のそばに停泊した=長崎県長崎市
オランダ船の捕獲をもくろみ、英軍艦フェートン号が姿を見せた長崎港。奥の女神大橋の先に見える島のそばに停泊した=長崎県長崎市
長崎港に侵入した英軍艦「フェートン号」を描いた絵図(長崎歴史文化博物館蔵)
長崎港に侵入した英軍艦「フェートン号」を描いた絵図(長崎歴史文化博物館蔵)

■警備で失態、苦渋の対応

 入り江に現れた帆船は、偽りの旗を掲げていた。文化5(1808)年8月15日午後、長崎港。マストにはためいていたのはオランダ国旗。疑いもしなかったのだろう。入港手続きのためオランダ商館員が小船で横付けしたが、帰ってこない。そのまま拉致され、食料や水、薪(まき)を要求された。

 船の正体は英国の軍艦だった。海外との交易を制限し、オランダや中国の船舶しか入港できなかったこの時代、天領の長崎を管轄していた長崎奉行所や、港の警備を担当していた佐賀藩の藩士は大混乱に陥る。

 この出来事は軍艦の名から「フェートン号事件」と呼ばれる。英国は、ナポレオン戦争でフランスの占領下にあったオランダと交戦国の関係にあった。オランダ船舶の捕獲をもくろみ、長崎港に侵入してきた。

 長崎警備は、出島でオランダとの貿易が始まって以降、佐賀藩と福岡藩が1年交代で務め、事件の年は佐賀藩の当番だった。「異国船侵入」の連絡を受けた長崎奉行の松平図書頭康英(ずしょのかみやすひで)はただちに佐賀藩の役人を呼び、打ち払いの準備を命じる。しかし、準備は遅々として進まず、小型艇に分乗したフェートン号乗組員に、自由に港内を探索されるありさまだった。

 警備は本来、1300人を超える態勢で臨む手はずだった。事件当時はオランダ船の入港予定がなかったため、100人ほどしかいなかった。長崎歴史文化博物館(長崎市)の主任研究員岡本健一郎さん(42)は「100年以上にわたって何事もなかったという気の緩みに加え、藩財政が厳しかったため人員を引き上げていた」と説明する。佐賀藩の大きな失態だった。

 打ち払おうにも人手が足りない。相手の艦砲にも対抗できそうにない。松平図書頭は苦渋の決断をする。人質のオランダ商館員と引き替えに要求を受け入れ、食料や水を提供した。補給を終えたフェートン号は事件発生から2日後、悠々と長崎港を出ていった。

 船影が海の彼方に消えたのを見届けた後、松平図書頭は責任を取って切腹した。佐賀藩は、事件の経緯や対応を幕府から詰問された。幕府の厳しい見方を知った佐賀藩は、現場責任者だった番頭の千葉三郎右衛門胤明(たねあき)と蒲原次右衛門好古(よしふる)を引責切腹させ、関係者10人を家禄(かろく)没収処分にした。佐賀藩9代藩主の鍋島斉直は幕府の命で、謹慎刑の一種「逼塞(ひっそく)」100日に処され、江戸屋敷で謹慎した。

 事件は長崎警備が形骸化し、無力だったことをさらけ出した。幕府はこれを契機に警備の強化や充実を図る。文化7(1810)年にかけて、長崎港の入り口の女神地区や神崎地区に、大砲の設置場所になる台場を増築した。沿岸に近づく外国船が他でも相次いだため、排除を命じる「異国船打払令」も後に打ち出す。

 警備強化に絡む財政負担は佐賀藩にものし掛かる。『続佐賀藩の総合研究』(藤野保編)によると、武器購入や船の修理費用など長崎警備関連の支出は従来、藩財政の1~2%だったが、事件の年は16・84%、翌年も13・26%と急増。その後3年間も平年の2~3倍という高い状態が続いた。岡本さんは「失態が負い目になり、幕府に言われるがままに出費するしかなかったのでは」と推測する。

 藩政時代の資料群である「鍋島家文庫」には、切腹した千葉と蒲原の遺書が残されている。「役目に手抜きがあり、死をもっておわび申し上げる」「準備不足で異国の船の侵入を許してしまった。生き長らえることはできない」。猛省や覚悟が切々とつづられている一方、行間には不条理な死への無念さもにじむ。

 ただ、軍備増強や藩政改革は、この苦い教訓から一気に進んだわけでもなさそうだ。長崎警備に絡む支出の伸びは、藩財政の厳しさもあり、5年ほどで落ち着いている。事件は、太平の眠りを覚ます異変の序章に過ぎなかった。

■マカオ占領で情報収集

 英国海軍のフェートン号は38門のカノン砲を搭載し、哨戒や偵察を主な任務とする高速の木造帆船だった。本国で建造された後、北米配備を経てインドに回航し、インド洋や東南アジア海域を中心に商船護衛などの任に就いていた。

 国交がない英国の軍艦が長崎に姿を現した背景には、英国がフランスと戦ったナポレオン戦争の影響がある。

 『幕末維新期の社会的政治史研究』(宮地正人著)によると、フェートン号は中国貿易の要衝だったマカオを占領する作戦に参加し、周辺海域の情報収集を兼ねて長崎を目指したという。英国はフランスの占領下にあったオランダとも交戦状態にあった。マカオを安定的に占領するには、長崎にオランダ艦隊が存在するかどうかや、港の軍事的機能を確認する必要があった。

 オランダの艦船が不在だったため結局、早々に引き上げたフェートン号。軍事的な思惑だけで動き、日本側に及ぼす影響は考慮していなかったようだ。

=年表=

1792(寛政4) ロシア人ラスクマンが通商を求め根室に来航

1804(文化元) ロシア人レザノフが長崎・出島に来航するものの通商を拒絶される

1808(文化5) 英軍艦フェートン号が長崎港に侵入

1824(文政7) 水戸藩の大津の浜に英国人12人が上陸

1825(文政8) 江戸幕府が「異国船打払令」を発令

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