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さが維新前夜(7)インタビュー(上)幕末の政情と改革

2017年02月18日 10時11分

幕末の政治状況や藩政改革について語る大園隆二郎さん=佐賀市の佐賀新聞社
幕末の政治状況や藩政改革について語る大園隆二郎さん=佐賀市の佐賀新聞社
幕末の藩領図
幕末の藩領図

■鍋島報效会評議員 大園隆二郎さん

 幕末の佐賀の軌跡をたどる連載「さが維新前夜」。佐賀藩領の産品が出展された第2回パリ万国博覧会の舞台裏や唐津藩の旧産炭地をたどり、当時の様子を概観してきたが、佐賀藩をはじめとした国内外の政情はどういう状況だったのか。鍋島報效会(ほうこうかい)評議員の大園隆二郎さん(64)に聞いた。

■外圧受け、藩政安定に腐心

 産業革命を契機に、西洋諸国が急速に近代化を進めた19世紀。各国は資源や市場を求めて世界各地に進出した。江戸幕府は長崎などで、オランダや中国との外交や貿易を許していたが、日本近海に新たに出没する国々とも通商や国交を巡る条約を結ぶことを迫られる。

 佐賀藩が列強の進出を肌身で感じたのは1808(文化5)年のフェートン号事件だろう。警備を務めていた長崎で、オランダ船に偽装した英国船の侵入を許した。このころから次第に世界史の歯車に組み込まれていくことになる。

 この事件に加え、アヘン戦争(1840~42年)の衝撃が、軍事力の強化や近代化を図る藩政改革を加速させていく。アヘン戦争では香港が英国に割譲された。この出来事は、長崎の島しょ部にも領地があった佐賀藩にとって、二の舞になりかねないという強い危機感を抱かせた。

 佐賀藩の歴史をさかのぼると、平たんな歩みではなかったことが分かる。鍋島氏は関ケ原の戦いで敗れた西軍につき、窮地に陥った。島原の乱では先駆けを急いで軍令違反に問われた。幕末の藩政改革や近代化は、こうした危機を乗り越えてきたことに力の源がある。藩の存続や結束への意志が底流にあり、為政者の求心力にもつながった。

 1830(天保元)年に佐賀藩主に就任した鍋島直正は藩政改革を押し進める。同時期に長州、薩摩なども改革に取り組み、雄藩としての土台をつくっていく。幕府も天保の改革で財政再建を図ったが、はかばかしくなく、権威が相対的に低下していった。

 佐賀藩の場合、藩内をまとめきれずに尊王派が処罰された福岡藩などと比べると藩内闘争が少なく、政治は安定していたようだ。政治の根本といえる、人民に不安を抱かせない政策の効果もあったと考えられる。

 農政に目をやると、小作人が地主に支払う小作料「加地子」を猶予している。地主の抵抗は想像できるが、農民の就労意欲を向上させ、農村を安定させる効果があったと思われる。

 家柄に関係なく人材を登用する仕組みは、中下級武士のやる気を引き出した。

 藩校「弘道館」の拡充は見逃せない。移転、拡張という見た目だけでなく、内容を充実させた。これは侍講の古賀穀堂の「藩治の要諦は人材を得ることにある」という理念に基づいていた。知識と胆力を持った人材を育てるだけでなく、登用して「自分にも出番がある」と思わせた。教育が藩政に直結する仕組みをつくり、弘道館が行政の質を決定する場所になった。

 現在の佐賀の県域には、佐賀本藩だけでなく、譜代の唐津藩、対馬藩の飛び地である田代領などもあった。唐津藩は幕府の影響力が及び、譜代大名の転封が続いた。田代領は列強進出の最前線にあった本藩の危機に巻き込まれていく。

 外圧への認識に温度差はあっただろうが、幕末は多くの人にとって先の見えない、不安な時代だったと思う。物価の変動に戸惑い、期せずして軍事に動員されるときもあっただろう。

 幕末には各藩が難しい対応を迫られ、藩政の安定に腐心している。唐津藩は藩主の小笠原氏が奥州棚倉(現在の福島県)から唐津に移ってからペリーの浦賀来航まで36年しかなく、政策が定着しないうちに幕末を迎えた。藩主長国の嫡子長行が老中になり第2次長州征討の指揮を執ったことも、立場を難しくした。

 倒幕、佐幕派などのせめぎ合いの中で佐賀藩は日和見とも称されるが、直正は「国内での戦争を避ける」というスタンスで一貫していた。幕府が力を弱めていく中で、朝廷と幕府が手を結ぶ「公武合体論」という軟着陸の路線を思い描いていたと私は考えている。

 佐賀藩は、西洋国家の在り方や世界情勢を理解しようとすることと併せ、日本の古典や武家政権以前の歴史も学んでいた。

 当たり前みたいだけれど、正式な歴史教科書がない当時としては難しいことだった。フェートン号事件がもたらした意識の変化もあって、一般の藩士までこうした知識が共有された。

 こんな逸話がある。明治の初め、唐津藩の英学校「耐恒寮」の英語教師だった高橋是清が佐賀藩の有志と議論したときのこと。有志が盛んに米国の共和政体の議論をするので、驚いたらしい。新しい時代にどのような日本をつくるか。西洋から何を学び、伝統をどう生かすか。思索を巡らす素地が育まれていた様子が読み取れる。倒幕は果たしたものの、その後の具体的な政治の仕組みまでは思い描けていなかった倒幕派とは、その点が異なっていた。

 おおぞの・りゅうじろう 1952年生まれ。県立高の日本史教諭を経て、県立図書館近世資料編さん室長を務めた。著書に『佐賀偉人伝 枝吉神陽』など。佐賀市。

=年表=

1830(天保元)  鍋島直正が第10代佐賀藩主に就任

1840(天保11) アヘン戦争(~1842年)

           藩校・弘道館を移転・拡張

1842(天保13) 加地子猶予令

1844(弘化元)  火術方を設置し砲術研究を開始

1849(嘉永2)  直正が嫡子直大に種痘を施す

1850(嘉永3)  大銃製造方を設置し築地で反射炉建造に着手

1851(嘉永4)  蘭学寮を設置

1852(嘉永5)  精煉方を設置

1853(嘉永6)  ペリーが浦賀に来航

           ロシアのプチャーチンが長崎に来航

1854(安政元)  日米和親条約締結

1858(安政5)  日米修好通商条約締結

           安政の大獄(~1859年)

           三重津海軍所の前身「御船手稽古所」を設置

           医学寮を移転し、好生館に改称

1860(安政7)  桜田門外の変 

1861(文久元)  直正が隠居し、鍋島直大が第11代藩主に  

1865(慶応元)  三重津海軍所で日本初の実用蒸気船

           「凌風丸」が完成  

1867(慶応3)  第2回パリ万国博覧会に佐賀藩が参加

           大政奉還

           王政復古の大号令 

1868(明治元)  戊辰戦争(~1869年)

           明治改元

   *   *

 ■次回は佐賀藩の科学技術や近代化の背景について、国立科学博物館の鈴木一義さんにインタビューします。

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