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さが維新前夜 パリ万博の残映(5)嬉野茶、挑戦の歴史脈々

2017年02月04日 11時23分

模様を描くように山沿いに広がる嬉野茶の茶畑。幕末の天保年間には、栽培地域が嬉野全体に広がったといわれている=嬉野市嬉野町
模様を描くように山沿いに広がる嬉野茶の茶畑。幕末の天保年間には、栽培地域が嬉野全体に広がったといわれている=嬉野市嬉野町
茶の輸出を手掛ける松尾俊一さん。茶葉を炒る釜を自作するなど昔ながらの製法にも挑戦している=嬉野市嬉野町
茶の輸出を手掛ける松尾俊一さん。茶葉を炒る釜を自作するなど昔ながらの製法にも挑戦している=嬉野市嬉野町

 嬉野市の不動山皿屋谷に広がる茶畑の中に、ひときわ目を引く「大茶樹」がある。高さ4メートル、枝張り10メートルに及ぶ深緑の大樹は江戸時代初期に植えられ、幕末の茶摘み人も見守ってきた。

 室町時代に中国の陶工がこの地に移住し、焼き物を作りながら茶を栽培。戦国時代には釜炒(い)りの製茶法が伝わったとされる。江戸初期に、嬉野茶の「茶祖」と呼ばれる吉村新兵衛が産業としての礎を築く。幕末の天保年間(1830~44年)には子孫らが栽培地域を嬉野全体に広げ、販路を長崎まで拡大した。この時期には等級を分けるなど茶の規格も整えられた。

 佐賀藩は軍艦の購入資金を得る目的で、茶の製造や販売を推進した。1867(慶応3)年の第2回パリ万国博覧会では、藩が茶を出品した記録があり、主要な産地に成長していた嬉野産が選ばれたとみられている。

 万博での販売は思うようにはいかなかった。持ち込んだ産品は期間中、5分の1ほどしか売れず、陶磁器の残品はフランスの商人と販売契約を結んだが、茶や白蝋(はくろう)はさばききれない。船で持ち帰るわけにもいかなかったのだろう。小出千之助ら佐賀藩の一行は手分けして、パリやオランダで売り尽くしに奔走した。

 想定外の展開だったかもしれない。それでも、小出は藩主・鍋島直正の側近への手紙(千住家文書)で、こうした趣旨の感想をパリから書き送っている。

 <緑茶は英仏ではなく、米国に向いている>

 欧州には17世紀前半、茶の習慣がもたらされた。当初は薬用が主流だったが、飲み物へと用途が変わり、英国などでは18世紀に中国産の紅茶が浸透した。小出の手紙ににじむのは、こうした国別の売れ筋や、商機につながる販路の実感だ。

 1760(宝暦10)年に、オランダの東インド会社を通じて長崎から初めて輸出されたという嬉野茶。輸出に絡んでは、幕末までにさまざまな試行錯誤が繰り返されている。

 『鍋島直正公伝』によると、茶商の松尾儀助は幕末に米国への輸出を目指し、長期間の船旅による茶葉の変色を防ぐための手だてを検討していた様子がうかがえる。すご腕の女商人として知られた長崎の大浦慶は1853(嘉永6)年、長崎に近い産地の嬉野茶の見本を出島のオランダ商人を通じて英国や米国に送り、3年後に大量の注文を取り付けている。このときは嬉野産だけでは足りず、九州各地から茶が集められ、米国に送られたという。

 パリ万博で世界の動向に触れた佐賀藩の経験は、明治以降の茶業の現場でも生かされてきたに違いない。

 その万博から150年を迎えた今、輸出に向けた動きが再び活発化している。高級緑茶市場がある米国への輸出を目指し、嬉野市やJAが試験栽培に本腰を入れている。1月下旬には体験施設を兼ねた歴史資料館「うれしの茶交流館」が起工し、歴史に学ぼうという機運も高まりつつある。

 「現地の状況が分からない中でお茶を販売するなんて、かなり挑戦的。日本のよさを海外に伝えたいという強い思いもあったんでしょう」。香りの高さを売り込もうと、釜炒り茶をフランスなどに輸出する生産者の松尾俊一さん(38)は、万博の舞台に佐賀藩が立った時代に思いをはせる。

 松尾さんは県内を探し歩き、江戸時代に作られたとみられる鉄製の釜を譲り受けた。機械を使わない伝統的な手もみの製法に本格的に取り組もうと、昔ながらの唐釜を手作りしており、まもなく完成する。

 「ルーツを知っていないと嬉野茶の物語の本質が見えてこないし、伝えることもできない」と松尾さん。幕末と同じように、傍らで大茶樹が見守っている。

=受け継いだ商才=

 佐賀藩から第2回パリ万博に派遣されたものの、客死した野中元右衛門はフランス・パリのペール・ラシェーズ墓地に葬られた。後に、自治政府パリ・コミューンと政府軍との戦闘のあおりで荒れてしまったこの墓を1874(明治7)年に再建したのが、おいに当たる松尾儀助だった。

 幼い頃に父親を亡くした松尾は、野中の手ほどきを受けて商才を磨いた。オーストリアのウィーンで開かれ、明治政府が公式参加した1873(明治6)年の万博でも活躍した。

 人気を博した日本庭園を買い取る話が持ち上がった際は、松尾が社長になって商社を設立し、交渉をまとめ、日本商品の販売も進めた。

 ウィーン万博は総裁を大隈重信、副総裁を佐野常民が務めるなど、佐賀出身者が要職を占めた。

1504(永正元) 中国から釜炒りの製茶法が伝わる

1760(宝暦10)嬉野茶がオランダ東インド会社を通じて長崎から輸出

1867(慶応3) 第2回パリ万国博覧会

1873(明治6) ウィーン万国博覧会

1874(明治7) 松尾儀助が野中元右衛門の墓を再建

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