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唐津市鎮西町の県立名護屋城博物館が、文禄・慶長の役(1592~98年)で築かれた佐賀藩の藩祖・鍋島直茂陣跡の発掘調査を進めている。約130カ所ある諸国大名の陣跡の中でも屈指の規模で、当時のままの石垣も残る。配陣図に示された場所には、鍋島と龍造寺両家の微妙な関係をかいま見るように、陣屋が2つ置かれたと思われる跡もある。調査の現場を訪ねた。
直茂の陣跡は「高嶽(たかたけ)」と呼ばれる南北480メートルに広がり、標高72メートルの小高い丘にある。木々が生い茂った山道を分け入ると、中腹部に石垣が見えてくる。入り口付近では実測作業員3人が、石一個一個の配置などを計測し記録、このほか約10人が発掘作業に当たっていた。
鍋島直茂陣跡については、現存する資料が少ない。しかし、佐賀市大和町の玉林寺に「陣屋の建物を移築して伽藍(がらん)(玉林寺)を建てた」とする「銘」があり、当時、しっかりした建物があったことが分かる。
陣跡の大きな特徴は、丘の頂上部と中腹部2カ所に、数十メートルにわたって石垣や石塁などで囲まれた広い空間があること。それぞれが独立しているとみられ、2つの大名の陣跡と考えてもおかしくない規模だ。
「これが何を意味するのか。想像すると面白いですよ」と同博物館の武谷和彦学芸員。現存する配陣図を見ても、この丘には直茂の陣屋しか記されていない。ただ、陣屋が置かれた当時の鍋島家の”お家事情”に目を移すと、一つの仮説が浮かんでくるという。
頂上部が龍造寺、中腹部が鍋島では-。
直茂は「五州の太守」と呼ばれた龍造寺隆信に仕えていたが、隆信が島原の戦いで没した1584年、龍造寺家一門や重臣から領国統治の委任を受ける。99年に大名格としての処遇を受け、実質的な政務を仕切っている。それでも、龍造寺の家臣という立場は変わらない。それが「二つの陣跡」というのだ。
この”仮説”を裏付ける資料は、見つかっていない。鍋島と龍造寺の陣跡の位置が逆だったり、まったくの別の大名である可能性もある。武谷学芸員は「分かっている情報をもとに、いろいろな人が自由に仮説を楽しむことができるのも、歴史の醍醐味です」と話している。
陣跡の石垣の状態も比較的良好だ。現在、中腹部の調査が進んでいるが、石垣は約100メートルで確認でき、このうち約30メートルは約1・5メートルの高さで連なる。
調査は2010年度まで続く。来冬には一般向けの現地説明会を予定しており、その後、保存の在り方や利活用の方法などが検討される。
【写真上】中腹部の広い空間にある石垣。約100メートルにわたって確認され、このうち約30メートルは高さ約1・5メートルの高さで連なっている
【写真下】空間の入り口の遺構で発掘調査をする作業員
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