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「卑弥呼の宮殿とは時期が違う」 吉野ケ里発掘の高島氏

纒向遺跡大田北地域の大型建物の発見について  佐賀女子短期大学 高島忠平

 ヤマト王権発祥の地といわれている所での今回の発掘成果は、大きな意義がある。これまで、不明とされてきた集落跡、あるいは宮殿跡と思わせる大型建物と中小の建物が整然と軸線を共通に建てられ、一定の区画と方位性をもっているところから、祭祀性のある建物と考えられる。

高島忠平氏

 指摘できるのは、古墳時代の家型埴輪の配列と共通する点があることだ。古墳時代の豪族居館・祭祀施設に連なるものではないか。しかし、小範囲の発掘であり、これらを含むほかの遺構や建物群は、広範囲に存在するので、それらが明らかとなった段階で比較検討し、遺構群の性格・機能を判断すべきだろう。

 いずれにしても、後の古代国家に連なるヤマト王権発祥の地での今回の発見は、謎の多い日本古代国家の起源を探る上で、貴重な発見である。

 吉野ケ里遺跡は、環壕集落全域を発掘調査で明らかにしており、その結果、歴代の王の墓、北内郭祭殿、南内郭宮殿、倉と市、南のムラ一般集落、祭壇といったもので構成される3世紀の一つの国の首都の構造をとらえている。
纒向遺跡は、それを明らかにできるには、長期間を要するだろうが、ヤマト王権、ひいては日本国家の起源を明らかにする重要な遺跡なので、今後の継続的な発掘調査に期待したい。

 卑弥呼の宮殿かとするには、時期が違う。纒向遺跡の最近の発掘で種々の問題がでてきており、今回発見の遺構(庄内式土器期)は4世紀以降のものとするのが無難である。
                
                                ◇

 邪馬台国論は1970年代までは、箸墓など巨大古墳は、古墳時代、4世紀以降であることを共通の認識として行われてきた。

 ところが、1980年代ごろから、考古学研究者、東洋史研究者の要請に応えた考古学研究者の間で、古墳時代を100年から50年ほどさかのぼるとする見解が出されるようになった。
   
 ヤマト王権の発祥地とされる箸墓をはじめ奈良盆地南東部の古式の古墳群の時期を、3世紀とし、邪馬台国近畿説の根拠とするようになり、纒向遺跡の発掘成果を重ねて、纒向遺跡を邪馬台国の都と位置づけた。

 古墳時代の始まりを50年、100年と徐々に古くするなかで、多くの研究者が追随していった。これに呼応して、中国鏡の編年研究が進められ、これまで、3世紀の紀年鏡副葬古墳を従来より時代を古くする根拠とするようになった(しかし、3世紀に中国で鋳造された鏡は、紀年銘のあるものを含め、5世紀以降の古墳から出土することが多々あり、古墳や土器の年代を決定する資料にはならないとされている)。

 また、これには、 C14(放射性炭素)年代測定と年輪年代測定の結果が一定影響をあたえている。

 現在では、科学的な年代測定については、彼らの考古学見解と矛盾するところが生じ、国立歴史民俗博物館の研究グループを除いては、採用していない。ところが、近畿説をとる研究者間で違いはあるが、纒向遺跡を中心とした古墳・遺物(主として土器)・遺構の年代は、依然としてそのままである。

 最近の古墳を含む纒向遺跡群の発掘成果によれば、こうした遺跡を3世紀、それも邪馬台国時代とするには、種々の問題が出てきているにもかかわらず従来の年代観に固執している。

                         ◇

 以下、今回の出土品の解釈などについていくつかの問題点を指摘しておきたい。

 近畿説の研究者がいう布留1式(4世紀初め・歴博年代3世紀後半)の土器と「鐙(あぶみ)」が出土している。中国で鐙が出現するのは、4世紀はじめの西晋墓出土の陶傭に表現された片方だけの鐙で、両鐙となるのは4~5世紀である。朝鮮半島では、4世紀末に出現し、5世紀に普及し始めるものである。日本での出土例は、5世紀である。「鐙」というのは、騎馬戦が存在する軍事上極めて重要なものであって、アジア最古の鐙がそこにあっただけではすまない事案である。これまで、庄内・布留式土器の年代決定の手がかりがなかったが、「鐙」の出土は、そのための有力な資料となる。したがって、布留1式土器を従来どおり、4~5世紀とするのが合理的である。当然、庄内式土器の年代も4世紀以降ということになる。

 次に、最古級とされる「ホケノ山古墳」の石室床面から布留1式からしか出現しない小形丸底壷が出土している。この種の土器は、布留0式からあっても良いとの私見はあるが、この点から「ホケノ山古墳」の築造を庄内式土器期にはできない。ホケノ山古墳は4世紀後半のものである。

 また、魏志倭人伝が記述する「居所、宮室、楼観、城柵を厳重にめぐらして、人が居て、武器を持って守っている」とある卑弥呼の都(御家拠-館)は、城柵等の記述からみて環壕集落である。纒向遺跡をはじめ近畿では、弥生時代後期後半以降には存在しない。明らかに、魏志倭人伝は、環壕集落のことを記しており、九州の弥生後期後半の環壕集落がふさわしい。

 よしんば近畿で、卑弥呼の都するところ(御家拠-館)を求めるとすれば、時期的には、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡の弥生後期後半期ではないだろうか。ただし、唐古・鍵遺跡の環壕からは、城柵(土塁と木柵)を見出すのは難しい。

【写真】高島忠平氏(2007年10月撮影)

「奈良・纒向遺跡から大型建物跡発見」の記事へ
2009年11月10日更新

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