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―2001年、神埼高で甲子園に春夏連続出場した。佐賀北に移ったのは04年4月。母校を指揮するのは教師になって以来の夢でもあった。
■神埼の後、三養基では2年間、部長。野球部を指導したが、精神的には楽だった。監督としての達成感もあったし、若いころのように燃えることができるのか、気力が続くだろうかという不安が夢より先に来た。他校から見る佐賀北は「素材はいい、数も多い」。中に入ってみても素質ある選手がそろっていたが、「黙々と」「コツコツと」が苦手。粘りにも欠ける。神埼や三養基の選手たちは相当無理なことを要求しても、振り向けばちゃんとついてきていた。それに対し、「振り向けばだれもいない」、強制しかなかった。選手たちから不満の声が聞こえたが、基礎練習、体力づくりには妥協しなかった。
―「強い」と言われた、このチームも昨秋は初戦敗退。春も3回戦で敗れた。NHK杯でやっと優勝した。
■生意気な言い方かもしれないが、いつも「甲子園で勝てるチーム」を描いている。NHK杯を勝ち、少し間違ったら佐賀大会を制することができるかもしれないが、甲子園で勝てるチームではなかった。もちろん言葉にできるものではないが、その思いが変わったのは準々決勝の佐賀西戦。投打にミスが多く、内容が悪かった。負けてもおかしくなかった。それを我慢し、しのぎきった。準決勝、決勝は、こちらの指示に選手たちがかなりの部分で応えてくれた。夏の佐賀商相手に、それができたことに成長を感じている。久保、馬場の投手陣が良くなり、甲子園で勝てるかもしれないチームにはなった。
―甲子園経験は3度。その印象を「球場全体が味方と思え、ピンチになると怖いと感じる。ごまかしがきかないところ」という。
■初めての甲子園は佐賀東の部長として。スタンドに初めて立った時の高揚感、選手たちの目の輝きは忘れない。そんなことを熱く語りかけても、「また、その話」のうちはチームは機能しない。甲子園に出たい、甲子園で勝ちたいが高じてチームは動き出す。
春夏の神埼と比較すべきではないが、神埼は「いっぱいいっぱいだった」。佐賀北にはまだ「のりしろ」がある。それをどこまで引き出してやるか、それが私の役割だと思う。
―特待生問題がクローズアップされる。背景に勝利至上主義。高校野球は誤った軌道を走っているようにも見える。
■強いチームで野球をやりたくて親元を離れる。リスクも覚悟しての選択だろうし、そのこと自体、悪いことではない。高校野球の周辺、環境は激変しているかもしれないが、選手たちは以前と変わっていない。うちは野球をやり、勉強もしなくてはいけない。与えられた環境で、選手と一緒に戦う。相手は関係ない。甲子園では一番難しいことかもしれないが、すべての選手に百パーセントの力を出させることだけを、今は考えている。
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▽ももさき・としかつ 佐賀北高、国学院大文学部卒。国語教師。佐賀農芸(現高志館)を皮切りに神埼などで野球部監督。04年から佐賀北勤務。佐賀市神園。
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