台場を築く際に使われた「長崎港内外台場図」。中央の赤い曲線が外国船の入港ルートで、赤線の左下に伊王島、右上に神ノ島が描かれている(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

佐賀藩が長崎警備のために台場を新造した四郎島。当時の石垣や、海峡を埋め立てた通路が現在も残る=長崎県神ノ島町

台場の築造について解説する長崎市文化財課学芸員の倉田法子さん=長崎市民会館

■列国侵入に備え難工事

 潮流の勢いが、防御の要の工事を難航させていた。

 長崎警備を担う佐賀藩が嘉永3(1850)年、欧米列国の軍艦侵入に備え、台場を築造するために着手した関連工事。長崎港の入り口に位置する四郎島に新たな大砲を据えるには、北東の神ノ島との間に資材を搬入する通路を造成しなければならない。海峡を220メートル埋め立てる必要があったが、石材をいくら海底に沈めても流れが速く、ごろごろと転がっていく。

 伊王島を含めた長崎港外の島々への台場新造は、10代藩主鍋島直正が2度にわたり幕府に進言していた。天保11(1840)年に勃発したアヘン戦争で、大国と思われていた清が英国に敗北。弘化元(1844)年には、貿易国オランダの軍艦パレンバン号が長崎に来航し、広く開国を促す国王の親書を届けたため、英仏などの進出を想定して軍備増強が欠かせないと考えたとみられる。

 進言に対する幕府の反応は鈍く、業を煮やした直正は当時の老中阿部正弘に「佐賀藩独自に台場を築く」と宣言した。「直正公譜」にその言葉が残る。

 <伊王島、神島等の儀(ぎ)、私一手(わたしいって)にて相備(あいそな)え候様仕(そうろうようつかまつ)る儀(ぎ)に御座候(ござそうろう)、この段申し上げ置き候(そうろう)>

 気概に押されたのか、幕府は新造を許可し、佐賀藩独力の工事が始まった。長崎港にはそれまで18カ所の台場があったが、新台場は旧来と様相が異なる。「古い台場は山頂など高い位置にあり、放物線を描く弾道で大砲を発射した。これに対し、新台場は『海岸砲台』という海面に近い位置から直線的に船を狙う方式になった」。長崎市文化財課学芸員の倉田法子さん(31)はこう説明する。

 新台場は大きく分けて伊王島区域に4カ所、四郎島を含む神ノ島区域に4カ所の計8カ所に計画された。このうち神ノ島の工事には延べ人数で作業員20万人、石工18万人を動員。工期は2年半から3年、費用は約2万7600両と見積もられるなど、佐賀藩にとって一大工事になった。

 最も重要視したのが、入港ルートから900メートルしか離れていない四郎島だった。この島に台場を築くには神ノ島との海峡を埋め立てる工事が必要で、藩内外の石工に算出させた見積もりでは、台場本体の工事とは別に4万5千~10万両の費用が見込まれた。

 佐賀藩は難工事に臨むに当たり、大量の石材を周辺の島々から調達した。運搬船は最も多い時で130隻が駆り出された。当初は船に積んだ石材を海中に投げ入れる手法を採ったが、容易に流された。現場を視察した長崎警備の責任者伊東次兵衛(じへえ)は、ぼやいている。

 <中間五拾間計(ちゅうかんごじっけん)りの処(ところ)、未(いま)だ出来兼(できか)ね居(お)り申(もう)し候(そうろう)>

 さまざまな手法を試す中、3メートル前後の木枠の立方体を作り、その中に石を詰めて沈めていく工法を編み出す。こうしてようやく、流れをせき止めることに成功したと伝わっている。

 大砲の設置場を造成する工事では、四郎島の頂上付近を10メートル以上削る必要があった。この工事では、台場を段違いの上下2面にすることで費用と労力を節約した。周辺には弾薬庫や道具庫、警備の藩士が待機する小屋など付属施設も建設され、嘉永6(1853)年に一応の完成をみた。

 多大な費用と労力をかけて完成した台場だが、実際の戦闘に使われることは一度もなかった。完成と同年のペリーの浦賀来航などを受け、日本は開国へとかじを切ろうとしていた。倉田さんは指摘する。「日本を取り巻く情勢の変化で、台場の役割は急速になくなりつつあった。それでも、台場築造を巡る試みは、新たな科学技術の獲得に向けた動きにつながっていく」

 台場に据える鉄製大砲を製造するため、佐賀城下に開設された「築地(ついじ)反射炉」では、台場完成後も試行錯誤が続いていた。

■藩主自ら外国の軍艦視察

 オランダの軍艦パレンバン号は、オランダ国王ウィレム2世の親書を江戸幕府に届ける目的で長崎に来航した。西洋式砲術の導入など、軍備の西洋化を進めていた佐賀藩主鍋島直正は、長崎奉行所に掛け合って艦内を視察している。藩主自ら海外の軍艦に乗り込むのは異例で、刺激になったのは想像に難くない。

 視察の様子は、同行した側近の古川松根(まつね)が描いた記録図18枚に残されている。一行が小船を連ねてパレンバン号に乗り込む光景や艦内での接待の様子、操船や大砲、小銃の試射の見学が細かく描写されている。

 記録図は、医師室や食料用家畜の飼育室、酒蔵を見学する様子も書き残している。徴古館主任学芸員の富田紘次さん(36)は「軍事的な分野だけでなく、西洋医学への関心も高めた視察だった」とみている。

=年表=

1840(天保11) アヘン戦争が勃発。2年間続き、清が英国に敗れる

1844(弘化元)  オランダ軍艦パレンバン号が国王の親書を携え長崎に来航

1847(弘化4)  鍋島直正が幕府老中阿部正弘に神ノ島、伊王島の台場築造を進言

1850(嘉永3)  佐賀藩が両島台場築造に着手

1853(嘉永6)  両島台場が完成

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