海軍伝習所で実習船だった「観光丸」は復元され、長崎港の遊覧船として運行されている=長崎市

鍋島報效会が所蔵する長崎海軍伝習所絵図。右奥には出島とスームビング号(観光丸)が描かれている

海軍伝習所があった長崎奉行所西役所跡。現在は長崎県庁があり、庁舎の脇に石碑がある=長崎市

■洋船入手、独力で習熟

 黒船来航と米ロからの開国要求に衝撃を受けた幕府は嘉永6(1853)年、対抗手段を講じるため、交易を続けてきたオランダに助言を求めている。返ってきた申し出は、海軍の創設に向けた協力だった。

 「日本の地理的条件は海軍に最適である。開国は洋式海軍を創設する好機で、乗組員の養成に力を貸す用意がある」

 オランダの提言は老中阿部正弘ら幕閣を動かし、洋式海軍の創設と軍艦購入、そして訓練施設である伝習所の設立が一体となって動き出す契機になった。幕府はこの年、海軍力強化を目的に大型船建造の禁を解いている。

 長崎奉行所西役所に伝習所が開設されたのは安政2(1855)年10月。その前年から、オランダの蒸気軍艦スームビング号(後の観光丸)を使って事前の伝習があり、佐賀、福岡両藩が幕府の募集に応じた。

 佐賀藩からは大砲製造の中心人物だった本島藤太夫らが参加し、藩主鍋島直正も乗船した。大砲や蒸気機関を見学し、スームビング号を気に入った直正は「この船を所望したい」と申し出て、艦長を驚かせた。この要請が断られたため、直正はオランダに蒸気船を注文することを決めている。

 本格的な伝習には福岡、薩摩、長州などの有力藩も生徒を送ったが、参加者は佐賀藩の48人が最も多かった。佐賀藩の学生長を務めたのは佐野常民。艦長候補生として幕府から派遣された勝海舟は「佐野が頭領になって面倒を見たため、佐賀の伝習生の習熟は最も早かった」と評価している。

 伝習所の教科は航海術や砲術をはじめ、数学や測量学など幅広かった。伝習生が最も苦労したのが、数学とオランダ語の習得。彼らの数学の知識といえば和算だけで、通訳も専門用語の訳語を知らなかった。

 そんな中、数学を得意とするようになったのが、後に海軍軍人となる中牟田倉之助だった。オランダ人教師が帰宅するのを門の外で待ち受けて教科書を借り、次の授業までに返す約束を取り付けて、下宿で書き写したという逸話が残る。

 こうして佐賀藩士は学びを深めていったが、伝習所で教育を受ける主体はあくまで幕府が派遣した伝習生だった。『中牟田倉之助伝』には不満げな様子がにじむ。「航海演習では、藩生は同乗できなかった」

 この状況を変えたのが、佐賀藩による3隻の洋船入手だった。安政4(1857)年に帆船「飛雲丸」をオランダから購入。翌年には藩の伝習生が帆船「晨風(しんぷう)丸」を建造し、直正が注文していた蒸気船「電流丸」が到着した。勝は本島に「蒸気船を入手したので、もう一手に稽古ができるだろう」と述べている。

 医師も他の藩士と同様の訓練を受け、2人が飛雲丸などに乗り組んでいる。県立図書館近世資料編さん室の百武由樹さん(34)は推測する。「直正は海軍の軍医や船医の育成も考えていたのかもしれない。ペリー来航を機に鎖国がほころび始める中、海防だけでなく、海外への長期航海、さらには海外進出まで想定していた可能性もある」

 安政6(1859)年2月、伝習所の閉鎖が突然、オランダ側に通告された。一定の伝習が進み、さらに巨費を投じて維持するまでもないと幕府は考えたのだろうか。教師団長のオランダ人、カッテンディーケは回顧録に「政府の仕打ちに非常に憤慨した生徒たちは、この責任を新任の大老(井伊直弼(なおすけ))に荷(にな)わせた」と記す。

 4月には幕府の伝習生が長崎から引き揚げたが、佐賀藩は伝習を続けた。カッテンディーケは書き残している。「佐賀藩の生徒は、藩の船の扱いで熟練を積み、われわれの力を借りずに終始独力で練習航海をやっていた」

 カッテンディーケは帰国前、中牟田ら10人の佐賀藩士に、伝習で使用した専門書を贈った。国元では長崎での実績を取り入れながら、海軍創設に向けた準備が着々と進んでいた。

■カッテンディーケ回顧録

 海軍軍人のカッテンディーケは長崎海軍伝習所で、オランダの第2次教師団長を務めた。彼の回顧録『長崎海軍伝習所の日々』からは、訓練の様子や伝習生の勉強ぶりが伝わってくる。

 造船術の進歩や砲術訓練の成果を高く評価する一方で、幕府伝習生の姿勢に不満も漏らしている。「いわゆる海軍軍人に仕立てられるこれら生徒の大部分は、ただ江戸に帰ってから、立身出世するための足場として、この海軍教育を選んだにすぎないのだ」と批判している。

 カッテンディーケは佐賀城下を訪れる計画も立てていたが、伝習所の閉鎖によって中止を余儀なくされた。「何人も予期しなかったこの奇怪な通告は、われわれ一同に、かなり不愉快な印象を与えた」と記している。邸宅を新築し、オランダ士官の来訪を待ちわびていた鍋島直正も残念だったことだろう。

=年表=

1853(嘉永6)

幕府が大型船建造の禁を解く

1855(安政2)

長崎海軍伝習所が開所

1857(安政4)

佐賀藩、飛雲丸をオランダから購入

1858(安政5)

佐賀藩、晨風丸を長崎で建造

佐賀藩、電流丸をオランダから購入

1859(安政6)

長崎海軍伝習所が閉鎖

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