厨子の窓からのぞく薬師如来像=佐賀市本庄町本庄の東光寺

■佐賀藩祖直茂も崇敬、秘仏として保管

 佐賀市本庄町の東光寺で、約千年前の平安時代後期に制作されたとみられる黒く焼け焦げた薬師如来像が厨子(ずし)(仏像の収納具)に保存されていたことが分かった。高さが169・5センチあり、同時代の仏像としては佐賀県内では最大級の大きさとなる。佐賀藩藩祖・鍋島直茂(1538~1618年)も戦勝祈願をしたという寺で、直茂の娘たちによる厨子の再建から400年の節目を迎え、18代住職の三浦祥善(しょうぜん)さん(68)が開帳し見つかった。

 薬師如来像はケヤキを彫ったとみられる一木造り。鑑定した県立博物館の竹下正博学芸員は「焼け落ちた腕なども当時の人々の手で保存してあることから、霊験あらたかな仏像として大切にされていたことが分かる」と話す。

 竹下学芸員によると、薬師如来像は頭があまり大きくなく、体つきのバランスが良くて薄いのが平安時代の流行と一致する。木が湿気などでゆがみひび割れることを防ぐため、頭と背中に長方形の穴を開けて内部をくりぬく方法も平安の技術という。焼損前は180センチの高さだったとみられ、巨大な一木造りが後年に作られる例は少ない。

 1789(寛政元)年に佐賀市の高伝寺が取りまとめて佐賀藩に提出した寺の歴史資料「曹洞宗由緒」によると、東光寺は直茂の父清房の代まで先祖の供養のため鍋島家から崇敬されていた。その後も直茂が薬師堂や本尊の厨子を建造し、大切にしていたという。

 厨子が老朽化して穴が開き、秘仏とされていた仏像を穴から見ようとする人が現れたため、直茂の娘3人が1617(元和3)年に厨子を作り替えた。秘仏にされた時期や仏像の焼損については書かれていない。史料を編さんした時の住職も秘仏を見たことがなく、焼け焦げていることを知らずに記録を書いた可能性もある。16世紀ごろ、九州では龍造寺家、大友家、島津家が争っており、三浦住職は「その戦乱の中で燃えたのでは」と推測する。

 厨子は高さ約2メートル、約幅1・5メートル、奥行き約1メートル。竹下学芸員と檀家の井上敏幸佐賀大名誉教授が小窓を開けて入り調べた。内部には薬師如来像のほか、室町時代末から江戸時代ごろの日光菩薩(ぼさつ)像、月光菩薩像、十二神将像も見つかった。

 三浦住職は「こんなに大きな仏像だったとは驚いた。厨子の窓はお盆すぎまで開けて、皆さんに見てもらいたい」と話している。

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