唐津炭田の石炭輸送に携わった曽祖父、七世宮島傳兵衞の足跡を語る宮島清一宮島醤油社長=唐津市船宮町

相知で掘り出した石炭を積み出した「岩栄(いわばえ)土場」について説明する唐津市相知市民センター総務教育課の黒田裕一さん。当時の石垣が残っている=唐津市相知町相知

幕末期の唐津炭田の様子やそこで働く人々の生活などを記録した「峯家文書」(唐津市相知図書館所蔵)

■雄藩進出、蒸気船の火床に

 唐津市相知町の旧唐津街道沿い。厳木川と土手で隔てられた一角に、テニスコートほどの草地がある。ここが幕末から明治にかけて、石炭を積み出す場所として川船が寄り集った土場と聞いても、面影はない。隅にかろうじて残る高さ2メートルほどの石垣だけが、往時をしのぶよすがだ。

 唐津市の相知や厳木、北波多には「唐津炭田」と呼ばれる炭鉱群があった。享保年間(1716~35年)に北波多で、農民が偶然に「燃える石」を発見したことが起源とされる。炭層が地表に近く、採炭も容易だったといい、まき代わりの燃料や、塩田で海水を煮詰める作業で利用されていく。天明8(1788)年には唐津藩が、九州の諸藩に先駆けて石炭採掘に関する法令を定め、専売化した。

 専売化から17年後には、唐津藩が管理する山で約470トンの出炭量があった。「幕末には全国40万トンの産出量のうち、約3割を唐津炭田が占めた」。唐津市相知市民センター総務教育課で文化財を担当する黒田裕一係長(49)はこう説明し、国内有数の産炭地に成長していたとみている。

 唐津藩の石炭政策の特徴は、炭坑を開発する元方に藩が資金を貸し出す「拝借金制度」。独自通貨の「藩札」などで貸し付け、元方は掘った石炭で得た利益で返済する。自己資金がなくても事業に着手でき、藩も金利や運上金(税金)を得られるメリットがあった。

 相知は農業と林業が主な産業で、人口は少なかったが、炭坑開発の影響で人波が押し寄せた。地元には炭坑用地の賃貸料が入る。石炭の積み出しで雇用も創出される。「村民はかなり潤ったはず」と黒田さん。

 いいことずくめとは限らない。炭坑からの排水は田畑を荒らす。開発には地元の庄屋らの同意が必要だったが、農業への悪影響を恐れ、断った地区もある。

 「掘り子」と呼ばれた作業者の約8割は島原や平戸、筑豊、三池など別の地域の出身者だった。中には通行手形を持たずに潜り込んでくる「流れ者」もいた。嘉永年間(1848~54年)には、現在の指名手配書のような文書が庄屋に配られたこともあった。

 日用品の代金未払い、ばくち、けんか…。風紀の乱れから「唐津藩が掘り子と村人の接触を禁じた」。相知地区にあった梶山村の庄屋の文書「峯家文書」にはこうした記録も残る。

 混沌(こんとん)とした状況が横たわる中、産炭地に転機が訪れる。幕府が元治元(1864)年ごろ、唐津地区の幕府領(現在の厳木町、相知町の一部など)で唐津藩以外の藩による採炭を許可した。九州地方を所管した日田代官所(大分県日田市)に営業許可料に当たる「冥加金」を納めれば、どの藩でも採炭が可能になった。

 諸藩が軍備を増強し、洋式蒸気船の購入を始めた時期と重なる。薩摩藩が先陣を切って進出し、慶応年間(1865~68年)には肥後藩や久留米藩、佐賀藩が続々と参入する。

 石炭の流通は、藩の許可を受けていた御用問屋2軒が独占していたが、影響が及ばない雄藩の進出で勢いに陰りが出る。後に「宮島醤油」を創業する七世宮島傳兵衛ら新興勢力が力をつけていく。宮島醤油の現社長、宮島清一さん(66)は伝え聞いている。「六世傳兵衛の時代から石炭輸送に携わっていた。七世は(薩摩や肥後、久留米から)買った石炭を帆船に乗せて大阪に運び、販売していた」

 雄藩は後に、倒幕に動く。江戸幕府を終焉(しゅうえん)させた戊辰戦争の最後の戦いである明治2(1869)年の「箱館総攻撃」を描いた「箱館戦争図」(市立函館博物館所蔵)には、薩摩藩の蒸気船がはっきりと描かれている。「ほかにも佐賀藩や久留米藩などの蒸気船が従軍した。函館まで航海した燃料は、唐津で掘った石炭で間違いない」と黒田さん。唐津炭は、歴史を動かした火床にくべられていた。

=呼子に輸送の船=

 石炭は幕末から明治初期にかけて、唐津炭田をはじめ、筑豊や三池、肥前、宇部などでも産出された。産炭地の概要をまとめた「日本石炭産業分析」によると、この時期の用途は塩田向けが最も多く、次いで外国船や国内諸藩の蒸気船の燃料が占めたという。

 唐津炭田は「素人でも掘れる」といわれるほど浅い地層に石炭があった。掘り子は肌着一枚で狭い坑口から入り、はうようにして採掘した石炭を竹籠(たけかご)に入れて集めていった。

 掘り出された石炭は、川船で松浦川河口の港に運ばれた。さらにそこから船で主に呼子港へ運ばれ、各藩に売られた。港は出入りの船でにぎわったと伝わる。

 慶応4(1868)年には、七世宮島傳兵衞が唐津の石炭を兵庫港へ積み出している。明治7(1874)年には販路を拡大し、東京にも運ぶようになった。

1716~36(享保年間) 北波多で農民が石炭とみられる鉱物を発見

1788(天明8) 唐津藩が石炭採掘に関する法令を制定し、専売化

1862(文久2) 幕府が諸藩に軍艦購入を許可

1864(元治元) 薩摩藩が厳木、相知で炭坑を開坑

1868(慶応4) 七世宮島傳兵衛が唐津の石炭を兵庫の港へ積み出す

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