中央奥が勝尾城。手前の集落は城下町・山浦新町

■有数の宗教遺跡ようやく

 11月のこの欄を書いた直後の11月18日、文化庁は「豊前彦山」を来年度「国史跡」に指定すると発表した。

 この報に接して彦山が国史跡に未指定だったことにまず驚いた。彦山には山頂の本宮を中心に、峰々に広がる修験遺跡、銅(かね)の鳥居、奉弊殿(ほうへいでん)、豊前坊などの建造物群があり、古代から近世、現代に続く我が国有数の宗教遺跡としてすでに国史跡指定になっているものと思い込んでいた。

 ここで1872(明治5)年の「修験禁止」以来、政府から冷遇されてきた彦山の史跡指定について、改めて考えてみたい。

 さて、前回述べた大友宗麟の「耳川合戦」の敗北により、1578(天正6)年以降、大友家に属した佐賀の龍造寺隆信、鳥栖の筑紫広門、筑前秋月の秋月種実(たねざね)が独立し、北部九州の大友領を侵食していく。

 長く大友氏の支配下にあった彦山権現と、彦山信仰圏にあった龍造寺、筑紫、秋月の関係にも変化が生まれ、三者は彦山とのつながりを深めていく。

 鳥栖市牛原(うしわら)町の山中に広がる国史跡「勝尾(かつのお)城筑紫氏遺跡」。この勝尾城の城主が筑紫広門であり、大友氏の没落後、博多一帯を制圧する。

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