対馬藩の尊王攘夷派の拠点になった藩校「日新館」の門。1970年代にいったん解体され、現在は日新館武道場前に移築されている=長崎県対馬市厳原町

勝井騒動で討たれた尊王攘夷派の指導者大浦教之助の墓(中央)について説明する歴史研究家の永留史彦さん。墓の両隣には同じ騒動で亡くなった大浦の子や孫の墓も並ぶ=長崎県対馬市厳原町の太平寺

■佐幕派と攘夷派、対立で犠牲

 江戸幕府や英国の介入を受け、ロシア軍艦ポサドニック号を追い返した対馬藩。難局は去ったかに見えたが、対馬を幕府の直轄地とした上で、治めていた宗氏が別の地に移る「移封(いほう)論」が波紋を広げていた。藩内の佐幕派と尊王攘夷派が対立し、飛び地である田代領(現在の鳥栖市東部と三養基郡基山町)を巻き込みながら混迷を極めていく。

 移封論を唱えたのは佐幕派で江戸家老の佐須伊織(さすいおり)。幕府上層部と親しく、大老井伊直弼(なおすけ)らに働きかけたが実現には至らない。一方の攘夷派は文久2(1862)年に行動を起こす。脱藩した藩士44人が江戸藩邸を襲撃し、佐須を殺害した。勢いに乗る攘夷派は長州藩と「対長同盟」を結ぶ。

 長崎県対馬市の歴史研究家永留史彦さん(63)は対立の背景をこう説明する。「佐幕派が幕府の支援なしには藩財政が立ち行かないという危機感を持っていたのに対し、攘夷派は元寇(げんこう)時代から最前線で国を守ってきたという誇りがあった」

 田代領の代官平田大江はポサドニック号事件で藩の意向に背いて出兵後、対馬でしばらく幽閉された。しかし、佐須が討たれ、佐幕派が力を失うと復権する。田代領に帰ると、長州や筑前の志士たちと交流を深め、三条実美ら公家とも親交を持つなど尊王攘夷派として実力を蓄えていった。

 本藩では、攘夷派をまとめた家老大浦教之助(のりのすけ)が元治元(1864)年、藩校「日新館」を設立。藩内から集まった200人超が史学や医学、武術を学び、攘夷派の本拠地になった。

 だが、この年の7月、長州藩が御所に発砲し、京都を混乱に陥れた「禁門の変」が起きると、流れが変わる。戦いに敗れた長州藩は朝敵となり、西国諸藩による追討を受け始める。このため対馬藩では対長同盟への不信感が広がり、尊王攘夷派の基盤が揺らいだ。

 そんな中、一人の人物の動きが事態をさらに複雑にする。藩主宗義達(よしあきら)の叔父に当たる勝井五八郎だ。当初は攘夷派に属し、佐須襲撃にも加担していた勝井。それが大勘定役に抜てきされると、藩財政が幕府の援助で成り立っている現実を知り、佐幕派の領袖(りょうしゅう)になって大浦らと対立していく。

 せめぎ合いが激しくなると、勝井は田代領に左遷された。これを機に、攘夷派の指導的立場を狙っていた平田は、勝井とともにクーデターを企てる。鳥栖郷土研究会会長の藤瀬禎博さん(70)は「2人は攘夷派と佐幕派で考え方は異なっていたが、『共通の敵』である大浦を排除することで一致した」と推測する。

 手勢とともに先に対馬に乗り込んだ勝井は、防備が十分ではなかった攘夷派の隙を突いて藩主の居城を急襲。藩主を擁し、藩庁を掌握する。病床にあった大浦は役職を罷免された上で拘束され、牢(ろう)の中で死亡した。他の攘夷派も「悪事を密談し、国中を乱した」との罪状で、切腹や斬首に処されたほか、勝井が放った刺客に暗殺された。犠牲者は100人を超すとされ、一連の事件は「勝井騒動」と呼ばれる。

 対馬に向かう心づもりだった平田は、大弾圧を知って田代にとどまっている。平田としては大浦派の中枢を排除するのが狙いで、自身の権力基盤になると目していた攘夷派が一掃されることは想定外だった。平田は勝井と袂(たもと)を分かった。

 慶応元(1865)年も勝井の支配は続き、平田は田代領民に呼び掛けている。「攘夷派への弾圧と藩の佐幕化を打破するため、薩長などと協力し、藩主へ嘆願する。田代に居住している者も協力してほしい」

 薩長などからの働きかけが事態を動かし、勝井は藩主から切腹を命じられた。勝井は応じずに逃げたが、追っ手に殺害された。平田はその後に対馬へ渡ったが、争いの裏で策謀していたことが知れると責任を問われ、藩主の命で討たれた。

 一時期は、長州との同盟で尊王攘夷派の一角として存在感を見せた対馬藩。永留さんは「騒動で多くの優秀な若者が亡くなった」と悔やむ。幕末は、別の歴史を紡いだであろう人物を失った歳月でもある。

■藩校「日新館」の開校

 対馬藩の藩校「日新館」は「時勢に順応すべく、文武両道を振興して、尊王攘夷の大義を明らかにする」ことをうたい、開校した。

 規則は江戸幕府の教育機関「昌平黌(しょうへいこう)」にならい、創立者の大浦教之助をはじめ、幾度(きど)八郎、大浦遠(とおし)ら藩内の尊王攘夷派の中心人物が若い藩士の教育に当たった。

 開校式は藩主宗義達に加え、攘夷派の志士として知られる久留米藩の真木和泉、長州藩の佐久間佐兵衛も出席した。

 学科はさまざまで、いずれも希望によって履修でき、必ずしも文武両道を極める必要はなかった。

 優秀な塾生は多かったが、「攘夷論者にあらずは対馬藩士にあらず」といった気風も散見され、粗暴な行為で領民を怖がらせる者もいたという。

年表

1862(文久2) 攘夷派の対馬藩士44人が脱藩し、江戸藩邸を襲撃。江戸家老の佐須伊織を殺害

1864(元治元) 大浦教之助が攘夷派を育成する藩校「日新館」を設立。7月に京で「禁門の変」が起き、10月には「勝井騒動」で藩士100人以上が殺害される

1865(慶応元) 勝井騒動に関わった勝井五八郎、平田大江らが処分される

 ■次回は、日米修好通商条約締結から安政の大獄、桜田門外の変に至る混乱の中での佐賀藩の動きをたどります。

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