唐津の街並みを見下ろすように位置する唐津城。領主が短期間で交代したため、町人の力が強い独自の文化が生まれた=唐津市

山田洋さん

佐久間明さん

 外様大名の鍋島氏が一貫して統治した佐賀藩と異なり、譜代大名の転封(てんぽう)が続いた唐津藩。唐津藩が担っていた役割や、藩主の系譜、幕末の藩主小笠原長国(ながくに)の治世について、郷土史を研究する山田洋さん(80)と、唐津藩士の孫に当たる佐久間明さん(100)に尋ねた。

■幕府の思惑で領主交代

 松浦史談会事務局長 山田洋さん(80)

 唐津の幕府領での一揆が鎮圧された翌年の天保11(1840)年、唐津藩主小笠原長和(ながよし)が19歳で急逝した。翌年に家督を継いだのは、信濃の松平家に生まれ、長和の養子になった18歳の長国(ながくに)。小笠原氏が藩主を務めるようになって5代目で、幕末を唐津で過ごした。

 小笠原氏は、幕府に領地替えを命じられて唐津に移る前の奥州棚倉(現在の福島県)時代から財政難に苦しんでいた。棚倉は米の収穫量が少ない上に、海に面していない。経済的に恵みが限られる土地柄だったことが背景にある。唐津への転封でも多大な出費を余儀なくされた。

 長国は窮状を打開しようと、唐津で財源の拡充に取り組んだ。和紙の原料になる楮(こうぞ)を3年間で100万本植え付け、天保14(1843)年には小川島の捕鯨を藩営にした。楮などの専売制を強化し、地域の産品を活用して収入を増やそうという狙いがあった。

 唐津藩は初代藩主の寺沢氏をはじめ、幕領時代を挟んで6家が支配した。大久保、松平、小笠原氏ら将軍家に近い名門譜代大名が領地を与えられ、在任期間は最も短い松平氏で3代13年、最長の土井氏でも4代71年にとどまった。

 幕府が唐津藩主のポストを重視していたことが短期間での転封につながった。幕府は、今で言うなら内閣官房のような要職に当たる「奏者番(そうじゃばん)」を唐津藩主に命じた。幕府の最高首脳部に当たる幕閣に「そろそろ引き上げたい」というタイミングで、老中に昇格するステップになる奏者番に起用し、将軍との面会の取り次ぎ役をさせた。大久保氏以降は、転封して唐津を離れた領主が任命され、小笠原氏の場合は、長国の養子で藩主名代を務めた長行(ながみち)が任用されている。

 転封は、領地を統治する立場からすると、考えものだ。基盤の強化を妨げ、地域に影響力を持つ庄屋に頼らざるを得ない状況を生み出した。長国より160年以上前に藩主を務めた大久保氏は、庄屋の転勤制度のようなものをつくって農民との関係を切り離し、統治機構に組み込んだ。幕領一揆が起きた天保年間になると、財政難の深刻化で藩の権力が弱まり、単純に上意下達とはいかなくなった。従来以上に庄屋の力を利用し、農民の反発を招いた。

 中央政治と強く結びつき、幕府の思惑に左右された唐津藩。そうした中、長国が藩主に就任した時期には、香港が英国に割譲されたアヘン戦争(1840~42年)が起きるなど、列強の足音が迫ってきていた。

 唐津藩には「長崎見廻(みまわ)り役」が命じられていた。1年交代で長崎警備が課せられた佐賀、福岡両藩ににらみを利かせる目的だった。有力な外様大名がそろう九州にあって、地理的に重要な役目を担っていた。

 長国は大砲の試射を実施するなど、佐賀藩と同じように軍事力を強化した。これは長崎の留守居役(るすいやく)がもたらした海外情勢の情報があったからこそ。後に老中となる長行も、こうした知識を国政に生かしたはずだ。

=やまだ・ひろし= 佐賀市生まれ。元中学校社会科教諭。郷土史を研究する松浦史談会の事務局長や唐津市文化財保護審議会会長を務めている。唐津市神田。

■唐津藩士の子孫 佐久間明さん(100)

 町人文化発達、漁民も力

 小笠原氏の家臣だった佐久間氏は、転封となった藩主に従って棚倉から唐津に移り住んだ。

 祖先は藩主の転封に随行して何度か拠点を変えている。特に棚倉から唐津への引っ越しは距離が遠いだけに、財政的にも人的にも相当な負担で大変な思いをしたはずだ。船を使ったと思われるが、正確な記録を目にしたことはない。

 転封が続き、領主が短期間で交代した唐津の町は、町人文化が発達した。それは唐津くんちによく表れている。殿様が町人に借金をして頭が上がらなかったという話を伝え聞いているし、漁民の親方の力も強かったという。

 2代藩主長泰は実際に文政9(1826)年、庄屋や、農民から選ばれる名頭(みょうとう)らを唐津城に呼び、「財政難につき、その方共に助勢を頼む」と懇願している。勢い、町人の発言力は増しただろう。かじ取りが難しい中、幕末の藩政内部では別の問題も生じた。

 幕末に藩主を務めた長国と、2歳年上の長行には、それぞれを支持する家臣がいて、その間で対立が生まれたと聞いている。

 佐久間さんの祖父に当たる佐久間退三は、長国の養子で藩主名代や老中を務めた長行に従って戊辰戦争を戦い、新選組に入隊して函館戦争に参戦した。

 祖父の退三は最後まで長行と行動を共にしたが、曽祖父の知致(ともむね)は長国に従った。親子で異なる道を選び、つらかっただろうが、無口な祖父は「長行公は立派な方だった」とだけ話していた。長国に対しても、批判めいたことは決して口にしなかった。

 唐津藩や藩士たちは時代に翻弄(ほんろう)されたが、封建社会が大きく変わろうとする中では、仕方がなかったことなのかもしれない。幕末という時代の中で、祖先は懸命に生きたんだと思う。

=さくま・あきら= 1916年生まれ。唐津藩士で明治時代に唐津町長を務めた佐久間退三の孫。大戦後、教員などを経て自衛隊に勤務した。唐津市東唐津。

 ■次回は佐賀藩の藩校、弘道館を取り上げます。

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