鏡神社境内にある寺沢志摩守広高の墓碑=唐津市鏡

 前回、唐津藩最後の藩主小笠原家のことを書いたが、ならば初代藩主寺沢志摩守広高のことを書かずばなるまい。広高は最初は父とともに織田信長に、その後、羽柴秀吉に仕え、文禄元(1592)年からの朝鮮出兵の際に名護屋城普請を担当し、文禄の役では主に食料補給や兵力輸送を担務。長崎奉行にまで出世した。

 秀吉の死後、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでは東軍に関与。その戦功により天草4万石の加増となり、12万5千石の大名となった。

 そして唐津城築城、城下の町割り、松浦川の改修、新田開発、暴風・防砂林(虹の松原)の植林を手掛ける一方、領内各村に大庄屋を置き、その下に小庄屋や名頭などを配置して殖産を図るなど、唐津の基盤づくりに大きく貢献した。

 広高は寛永10(1633)年に死去するが、その際、遺言を家臣に託し、「墓は鏡神社境内に葬れ」と言い残した。が、当時の規定で墓は鏡神社本社より8町(約870メートル)離れた場所に造らねばならなかったため、家臣の機転で鏡地区の道を巡回し、鏡神社本社の裏手に埋葬した。

 墓碑には「前志州太守甫宗可居士」と刻まれ、高さ1丈2尺4寸(約3.7メートル)と唐津歴代藩主の墓の中では最も大きい。

 ところで鏡神社の一ノ宮は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)、二ノ宮は大宰少弐藤原広嗣を祭る。ではなぜ広高は鏡神社に墓地を造るように遺言したのだろうか。これは私の推測だが、広高は鏡神社の三ノ宮になりたかったのではないか。地元の人々は現在でも「志摩様」として崇拝し、この墓を守っていることがそれを思わせる。

 たなか・まこと フリーの編集者で、民俗学、歴史を中心に編集・執筆活動を行う。1954年生まれ。唐津市桜馬場。

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