「染付蒔絵富士山御所車文大花瓶」

胴回りには、吉祥を示す龍文を描いている

底辺部には無釉帯が施され、台に差し込まれていた。台は現存しない

大花瓶の正面と背面に染付で富士山が描かれている

ウイーン万博会場の日本館を写した写真。名古屋城の「金のシャチホコ」(左端)の両端に有田焼の大花瓶を配している(1873年)

■ウイーン万博で日本アピール

 明治初期、パリやウイーン、フィラデルフィアなど世界各地の万国博覧会で人気を博し、江戸期に次ぐ“第二の黄金期”を迎えた有田焼。日本政府が初めて公式に参加した1873(明治6)年のウイーン万博には、数多くの有田焼が出品された。中でも万博会場の日本館を華々しく彩った有田焼「染付蒔絵富士山御所車(まきえふじさんごしょぐるま)文大花瓶」(有田ポーセリングパーク所蔵)は高さ185センチを誇る。巨大とも言える作品には精緻なデザインも施されており、日本を世界にアピールしようとする時代の気概が伝わってくる。

 ウイーン万博では佐賀出身の偉人大隈重信が日本側の万博事務局総裁を務め、副総裁には佐野常民が就いた。日本のさまざまな伝統工芸品が出品されたが、有田焼も数多く出品されている。政府は万博に参加するだけではなく、西洋の産業技術を学ぶため、日本から研修生を送り出した。小城出身で石川や富山、有田などで中等工芸学校の創設に尽力した納富介次郎らが現地で陶磁器の製造を学んでいる。

 「染付蒔絵富士山御所車文大花瓶」は万博会場内の日本館に2対出品。館の中央には、名古屋城の「金のシャチホコ」が座り、両脇に有田焼の大花瓶と灯籠が飾られた。大隈らの“佐賀びいき”を差し引いたとしても、いかに有田焼が重要視されていたかが分かる。

 大花瓶には銘がないので作者は不明だが、ウイーン万博の記録写真に写されていたので、年代が特定されている。大花瓶は万博後、ヨーロッパで売却され、1990(平成2)年にイギリスから里帰りした。

 昨年、県立九州陶磁文化館(有田町)では「明治有田 超絶の美-万博博覧会の時代」展を開催。鈴田由起夫館長は、その時展示した本作の特徴として(1)前代未聞の大きさ(2)細部にまで施された精緻なデザイン(3)蒔絵を使った立体的な装飾-を挙げている。「大きく変わった時代の息吹を反映している。世界に向けて情報発信しようとする明治人のチャレンジ精神を感じる」と魅力を語る。

 本作は明治期の有田焼では最大級となる高さを誇り、底辺部には数センチにわたる無釉帯が施されている。当時の記録写真には、磁器製の台に大花瓶を差し込んでいる光景が移っているが、台は現存していない。

 大物成形ろくろ師として知られる陶芸家の奧川俊右衛門さん(67)=有田町=は、これまで全長150センチほどの大花瓶を成形している。現在主流の鋳込(いこ)みではなく、ろくろで4つの部分に分け、生乾きの時に素地と同じ粘土でつなぎ合わせている。台まで入れると2メートルを超す本作に対し「先代の奧川忠右衛門でも180センチがやっとだった。現代では再現不可能な大きさ」と当時の高い技術力に驚く。

 全面に施された細密なデザインも華を添える。染付で富士山や龍、山水を描いており、その上には金彩ではなく、漆を使った蒔絵で御所車を施している。さらに正面には桜、背面には松を描いており、剥離防止のため釉薬をかけず素地に漆塗りするなど、細部にまで趣向を凝らしている。

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