三井三池炭鉱の宮原坑=福岡県大牟田市

炭鉱住宅で過ごした少年時代の思い出を語る農中茂徳さん=福岡県大牟田市

戦後最大の炭鉱事故となった三井三池炭鉱三川坑の炭じん爆発事故で、坑内から救出される負傷者=1963年11月9日、福岡県大牟田市

 福岡、熊本両県にまたがる国内最大規模の炭鉱だった三井三池炭鉱は、3月30日に閉山から20年を迎えた。その中核を担い、かつて「炭鉱の町」として栄えた福岡県大牟田市は、基幹産業の衰退とともに人口が減少、厳しい財政状況が続く。関連施設の世界遺産登録を機に「世界遺産の町」への転身を図るが、観光客は伸び悩んでおり、地域振興の道は見通せていない。

 1959年に約20万8千人だった大牟田市の人口は、閉山直後の97年4月、約14万5千人にまで減少。相次ぐ炭鉱関連会社の倒産に加え、市中心部にあった二つの百貨店が2001年と04年に閉店したことも重なり、町はにぎわいを失った。今年3月時点での人口は約11万8千人。65歳以上が34・7%(昨年10月時点)と高齢化が進む。

 地域振興策と期待され1995年に開園した第三セクターのテーマパーク「ネイブルランド」は、巨額負債を抱えてわずか3年で閉園。市には損失補償として約29億円の支払いがのしかかった。

 市財政は2009年度まで9年連続の赤字。同じ「炭鉱の町」だった北海道夕張市は、06年に全国唯一の財政再生団体となった。当時の古賀道雄市長は「二の舞いにならないよう財政再建を最優先する」と決意。10年度には黒字化したものの、税収の大きな伸びは望めず、財政の硬直は続く。

 転機が訪れたのは15年7月。宮原坑(大牟田市)や万田坑(熊本県荒尾市)、それらと港を結ぶ専用鉄道敷跡などが「明治日本の産業革命遺産」として、世界文化遺産に登録された。4年前から宮原坑などで観光ガイドを務める井上正三さん(70)=大牟田市=は、18歳から約10年間、坑内で働いた。「炭鉱があったから日本の産業は発展できた。元炭鉱マンとして町の魅力を世界に発信したい」と意気込む。

 ただ、楽観はできない。15年11月に約3万3千人を記録した大牟田市の炭鉱関連施設の観光客は、昨年2月には約4500人に激減。客は「長期滞在できるような施設の不足」を指摘する。

 市は昨年10月から市内ツアーを企画する旅行会社への補助金支給を始めた。荒尾市などと連携し、ガイド養成にも力を入れる。市制施行100年を迎えた今年3月には、炭鉱マンをほうふつとさせる公式キャラクター「ジャー坊」も登場させ、イベントなどを通じたPRを強化する考えだ。(共同通信)

 【三井三池炭鉱】福岡県大牟田市や熊本県荒尾市にまたがる国内最大規模の炭鉱。明治政府の官営を経て、1889年に三井財閥に払い下げられた。旧三井鉱山の主力鉱で、日本の近代化や戦後復興に貢献。石炭から石油へのエネルギー転換に伴う経営合理化の中、1959~60年には「総資本対総労働の対決」と呼ばれた三池争議が起きた。最大時で従業員1万5000人、年657万トンの出炭量を記録。63年の三川坑炭じん爆発事故は、死者458人の戦後最大の炭鉱事故。97年に閉山した。

 炭住で育った農中さん「後世に歴史継承を」

 三井三池炭鉱の炭鉱社宅で過ごし、少年時代の体験をまとめた自伝を昨年出版した農中茂徳さん(70)に「炭鉱の町」への思いを聞いた。

 -20年を振り返って。

 「様変わりしてしまった。1997年の閉山後、59~60年の三池争議や63年の三川坑炭じん爆発事故などのつらい過去を忘れようと、炭鉱の町から脱却しようとする雰囲気が町に漂った。先人が構築してくれた歴史を、後世へ継承していかなければいけないと思う」

 -自伝を書いたのは。

 「父親は貧しいながらも大学まで行かせてくれた。小児結核で病弱の時に支えてくれた母親や友人、野球や習字を教えてくれた大人たちへの感謝の気持ちを込めた」

 -記憶に残る出来事は。

 「三池争議と三川坑炭じん爆発事故だ。激しい労働運動を目の当たりにし、落ち着かなかった。事故では高校時代の級友の父親や兄が亡くなった。次々と病院へ運ばれる人の姿や、死者数が増え続けるテレビ映像を見て、気が気ではなかった」

 -一昨年、宮原坑や万田坑などが「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産に登録された。

 「大牟田は炭鉱の象徴となった。鉄道や港などの交通インフラが充実している。それらを生かしてにぎわいのある町づくりを目指してほしい」

 【のうなか・しげのり】1946年、福岡県大牟田市生まれ。県立大非常勤講師(人権教育)。昨年、自伝「三池炭鉱宮原社宅の少年」(石風社)を出版した。

このエントリーをはてなブックマークに追加