画家だった父の実家で作られていた丼を眺め、親子の思い出を語る副島花さん=嬉野市

副島花さんが今でも大切に使っている丼。桜の絵柄が気に入っている

副島さんが使っている丼(右)は、かつて吉野家に出荷されていた丼と似ている

■父とつながる丼 外食するたび「懐かしい」

 この丼は、父の実家の製陶所で作っていたものです。かつて嬉野市の吉田地区にあった工場で遊んでいたころの記憶を呼び覚ます器で、父が3年前に他界してからは、思い出をたどる品にもなりました。

 画家だった父の副島鉄三郎とは、ずっと離れて暮らしていました。父は神奈川にいて、私と母は嬉野に住んでいました。私が3歳になるぐらいまでは神奈川で暮らしていたけれど、父は創作に専念。母は糧を得るため故郷で、私を親戚に預けて働きに出ていたんです。

 寂しさはあったけど、愛情に飢えたことはありませんよ。母と2人でしょっちゅう父に会いに行ったし、父も手紙や写真を頻繁に送ってくれました。私たちが行けば、一緒の時間を何より大切にしてくれました。

 私たちが神奈川に行ったときの外食は、牛丼チェーンの「吉野家」が多かったですね。吉野家の丼を、父の実家の製陶所で作っていた時期があるから、父が行きたがるんですよ。注文した牛丼が来ると、食べる前に丼を両手で掲げてじっと眺めては、「懐かしいな」ってつぶやいていました。

 亡くなる前の年、一緒に行った最後の外食も、小田原城を見た帰り、駅までの途中にある吉野家だったと思います。

 吉野家の丼の実物は私の手元にはないけれど、よく似たこの丼がうちにあって、いつしか一番の愛用品になりました。桜の柄とか、深い赤の色合いとか、藍の地に施した黄色の網目模様とか、どこか似ている。かわいくて丈夫だし、手にもなじむから、丼物やラーメンを作ったときなど気軽に使います。でも、使い終わったら決して出しっぱなしや伏せたままにはせず、真っ先に棚にしまうようにしています。父をしのぶ器が割れてしまっては、代わりは手に入らないでしょ。

 父の夢は、いつか嬉野に帰り、子どもたちに絵を教えることでした。海外のコンクールで大賞を獲得するとか、評価も受けていたけれど、本人としては道半ばだったんでしょうね。結局、帰ってくることはありませんでした。

 でも私たちは今、不思議と、40年ぶりに一緒に暮らしているような気持ちなんです。毎朝、お仏飯のご飯をよそうのは、こぢんまりした器じゃなくて、父の実家が手掛けた別の丼。お浄土にいる父は食べる前にきっと、じっと眺めて「懐かしいな」ってつぶやいているでしょうね。

=余録= 娘に語った夢

 副島花さんの父親、鉄三郎さん(享年69)は、美術教育を受けたことのない異色の画家だった。佐賀大学の旧文理学部在学中に創作を始め、抽象化した風景を力強く描く独特な画風を築いていた。フランスやメキシコのコンクールでは複数回、大賞にも輝いている。

 鉄三郎さんはあるとき、花さんが器を焼き、自身が絵を描いて実家を継ぐ夢を語ったこともあったという。もし実現していたら-。花さんは「自由な生き方を貫いた人。他にはない、自由な発想の器ができていたんじゃないかな」と笑う。

 県内ではあまり知られていない鉄三郎さんの画業を伝えようと、花さんらは2年前、嬉野市で遺作展を開いた。その場に器もあれば、ひときわ輝きを放っていたに違いない。

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