■大老暗殺、藩の針路混迷

 久しぶりに顔を合わせた兄弟の関心は、政局の行方だった。安政5(1858)年5月初め、京都遊学から佐賀藩に一時帰藩した副島種臣が、兄の枝吉神陽のもとを訪ねた。世論が開国か攘夷かで揺れた日米修好通商条約の締結前のことで、尊王派の「義祭同盟」の中核を担っていた2人は政治の方向性を議論した。

 老中堀田正睦(まさよし)がこの年の1月、朝廷の承認を得て条約を結ぼうと上京した。しかし、攘夷論者の孝明天皇は3月、承認を拒否。堀田ら開明派の威信は失墜し、4月には彦根藩主の井伊直弼(なおすけ)が大老に就任した。

 直弼は、病弱だった13代将軍家定の跡継ぎ問題で、一橋徳川家の慶喜を推す一橋派と対立する南紀派に属していた。紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)(後の家茂)を支持する勢力で、直弼は一橋派の役人を左遷し、慶福を後継の将軍とすることを内示する強権的な手法で、政情の不安定さを治めようとした。

 そんな中、天皇が政治をつかさどる「天皇親裁」に考えが行き着いた枝吉、副島兄弟は、意見を朝廷に上申することを決める。6月に再び上京した副島が、尊王派の公家大原重徳(しげとみ)に「早く(天皇が将軍を任じる)将軍宣下を廃して、政権を収めらるべし」と進言した。副島はすぐに帰藩し、佐賀城下の大興寺で大木喬任(たかとう)や江藤新平、大隈重信らに報告、意見を交わしている。

 「武力倒幕のニュアンスではなく、政権を朝廷に戻す『廃幕』案だった」と鍋島報效会評議員の大園隆二郎さん(65)は分析する。

 枝吉はロシアのプチャーチンが来航した嘉永6(1853)年当時、欧米列国に武力を行使する場合は「幕府を中心にして戦うべき」という考え方だった。それから5年余りでの「廃幕」の主張は、この間に幕府の影響力が著しく低下した状況を反映していた。

 枝吉、副島兄弟が公家への進言に動いた6月、直弼は朝廷の承認を得ないまま通商条約の締結に踏み切る。これに孝明天皇が憤激し、8月には大名連合政権の実現を求める勅書を水戸藩に与えた。直弼の排斥を企図した勅書は「戊午(ぼご)の密勅」と呼ばれ、直弼の怒りを買って「安政の大獄」の引き金になった。大獄では一橋派の藩主や公家に加え、幕府が危険と見なした藩士や浪人が弾圧された。

 弾圧が続く一方で、佐賀藩は直弼の存在によって、懸案を打開する糸口をつかんでいた。長崎警備の強化に向け、幕領の天草を預かって軍港化する計画で、参勤交代のため江戸にいた藩主鍋島直正は安政6(1859)年11月、井伊邸を訪れて説明した。翌年2月には直弼を江戸藩邸に招いて深夜まで話し合っている。

 大老を藩邸に招くのは異例で、3月には幕府から正式に預かりの許可が下りる見込みになった。

 承認目前の計画は3月3日を境に、立ち消えになる。直弼が江戸城桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

 直弼と親しくしていた直正の命も狙われるといううわさが江戸藩邸に伝わった。関係者は驚き、佐賀に急使を立てる。国元で剣術に秀でた若者約30人が選抜され、直正を護衛するため江戸に急行した。

 大隈重信ら改革派の藩士はこの一行に同志を送り込み、幕府に近いと目されていた直正を説得して、攘夷派の水戸藩に近い立場に転換させることをもくろんだ。大隈は直正の心を翻した上で「天下の大事を謀(はか)らん」と考えていたが、実際に送り込めた改革派は数人で、不発に終わる。

 大老暗殺という非常事態を受け、幕府は政権運営に直正の力を借りようとしたが、「外交が困難に直面しており、長崎警備に専念すべき」と応じない。江戸城への登城を再三要請したが、直正は病気を理由に断り続け、翌月に帰藩した。

 直弼の死によって、幕府との太いパイプを失うことになった佐賀藩。針路は見通せなくなり、大隈が「殆(ほとん)ど紛糾と混乱の絶頂に達した」と表現するほど政局は混迷を深めていく。

■直正と斉彬の面会

 日米修好通商条約の締結を巡って揺れた安政5年、鍋島直正は長崎から蒸気船観光丸に乗ってひそかに鹿児島を訪れ、薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)と面会している。具体的な内容は伝わっていないが、2人は打ち解けて語り合ったとされる。

 それぞれの母親が鳥取藩池田家出身の姉妹で、いとこに当たる2人は、斉彬が藩主になる以前の天保期から交流を重ねた。参勤交代で江戸に上った直正を斉彬が訪ね、夜更けまで語り合ったという。ともに科学技術の発展に取り組み、両藩は競い合うように近代化を推し進めた。

 直正が鹿児島を訪れたのは、4月とも6月ともいわれる。佐賀城本丸歴史館の南里昌芳学芸員(49)は「いずれにしても、この時期に通商条約について議論しなかったとは考えにくい」と話し、緊迫する政局がテーマになったとみる。

 だが、斉彬はその年の7月に急死。弟の久光が藩の実権を握ることになる。

■年表

1858年 3月(安政5) 朝廷が通商条約締結の承認を拒否

      4月      井伊直弼が大老就任

      6月      副島種臣が朝廷に天皇親裁を進言

              日米修好通商条約を締結

      8月      「戊午の密勅」が水戸藩に下る

      9月       安政の大獄始まる              

1860年 3月(安政7) 桜田門外の変

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