筑紫神社社殿。軒先の先端「鼻隠し」を朱色に塗るのは銀閣寺など室町時代の建築に多く見られる=福岡県筑紫野市

 南北朝の争乱の中で将軍足利尊氏と弟・足利直義(ただよし)の間に争いが生じ、直義についた足利直冬(ただふゆ)は北部九州に進出する。

 そのころ、九州南部では1342(興国3)年、薩摩国山川に上陸した南朝・後醍醐天皇の第6皇子懐良(かねよし)親王が勢力を伸ばし始めていた。

 1348(正平3)年、懐良親王は菊池一族に迎えられて肥後国菊池郡に入る。南朝軍の盟主となった菊池武光は北部九州に進出して「基肄(きい)城(基山町)」を占拠して太宰府侵攻の機会をうかがう。

 これに対抗して大宰少弐(だざいしょうに)武藤頼尚(よりひさ)は天拝山に「飯盛城」を築き、九州に進出した足利直冬と同盟を結ぶ。

 これにより北部九州は南朝方の「懐良親王・菊池武光」、武藤氏と対立して肥前国を占拠していた北朝方の「鎮西管領一色範氏(かんれいいっしきのりうじ)」、「足利直冬・少弐頼尚」が三つどもえの争いを繰り広げる状況が生まれる。

 1350(貞和6)年、東肥前に侵攻した直冬・頼尚勢は杵島郡塩見城の橘公経(きみつね)を攻め、宮裾原で一色勢を破る。直冬方に味方した武雄の後藤兵庫允(ひょうごのじょう)光明に「村田庄」を、深堀彌五郎政綱に「養父郡内一色家人小久曽司郎三郎跡」を宛行(あてがい)するなど、肥前の大部分を手中にする。この一連の動きの中で筑紫神社の社家(しゃけ)「筑紫氏」が誕生する。(高尾 平良・鳥栖歴史研究会常任講師)

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