「文化御城下絵図」をもとに作成した弘道館の創設時と拡張後の所在地(公益財団法人鍋島報效会発行の「生誕200年記念展 鍋島直正公」図録から引用)

佐賀藩の藩校「弘道館」があった佐賀県庁前の一帯。松原小路から佐賀城北堀端に移され、敷地は約3倍に拡張された=佐賀市

■藩政の質、教育から向上 

 「ここを自分の住居だと思って文武の修行に励むように」。唐津藩で小笠原長国が藩主になる前年の天保11(1840)年6月、佐賀藩では10代藩主鍋島直正が新しくなった藩校「弘道館」を訪れ、居並ぶ生徒に訓示した。藩主になって10年。儒者古賀穀堂の献策を用い、本格的な教育改革に着手した瞬間だった。

 直正の祖父の8代藩主治茂が天明元(1781)年、人材育成を狙い松原小路に創設した弘道館を佐賀城北堀端に移転させた。敷地は3倍近くの5400坪に拡張し、本館や大講堂、武芸場、寄宿舎を設けた。生徒は千人規模で、経費は約4倍の千石に増額した。

 生徒は6、7歳から通学制の「蒙養舎(もうようしゃ)」で学び、17歳前後で寄宿制の「内生寮」か、通学制の「拡充局」に進学した。1日6時間だった青年の授業時間は拡張時に倍増し、午前6時から午後10時まで勉強した。教科は儒教に関するものが大部分で、古賀穀堂や枝吉神陽、草場佩川(はいせん)ら名だたる儒者が教師を務めた。礼法や数学、書道の授業もあり、武芸の稽古もした。大隈重信や江藤新平、佐野常民、副島種臣ら幕末、明治期の人材はここで学んだ。

 寮の食事は質素だった。後に歴史学者になる久米邦武は「内生寮の食事は朝は菜漬か沢庵(たくあん)、昼はちょっとご馳走(ちそう)で、夜分は二杯の量り飯に塩だけであった」と述懐している。ただ、若者たちは育ち盛り。海軍の軍人になった中牟田倉之助の伝記は「拍子木が打ち鳴らされると、たちまちイナゴのように食堂に殺到し、あっという間に飯びつを空にしてしまった」と記す。

 下級武士を含め藩士の子弟全員の入学を求めたことが、自由闊達(かったつ)な校風をもたらした。夜になると、同志で集って議論を戦わせた。江藤新平は熱中すると、飲みかけの茶を敷居のあたりに捨てる癖があり、久米は「敷居際の畳がいつもジュクジュクにぬれていた」と回顧している。

 漫然と過ごすわけにはいかなかったようだ。嘉永4(1851)年、身分ごとに25歳までの文武の具体的な達成基準を示した「文武課業法」が制定された。達成できない場合は家禄を減らし、役職にも就けなくするという。他藩と比べても厳しい規定だった。

 中牟田の伝記は「弘道館の学林が勢いよく茂るかのようだった」と規定の成果を記しているが、反発もあった。大隈重信は後に「明や清の科挙よりも酷である」と振り返り、手厳しく批判している。課程の達成に追われ、授業が形式化する恐れが生じたため、規定は9年後に廃止された。

 試行錯誤をしながらも、学びの場の拡充にとどまらず、人材登用の仕組みも併せて整えたことが、向学心を育み、藩政の質を高めることにもつながっていく。

 <選挙(人材選抜)の道を正しくして、人々の才を用ゆる事又(また)大肝要なり>

 穀堂は意見書「学政管見」の中で、有能な人材を用いることが重要と訴えた。提言通りに直正は家格に関係なく登用し、行政機構の要職に抜てきしていく。

 直正は校舎を毎月訪れ、生徒と同じ机で授業に耳を傾けた。弘道館の責任者には行政職トップの請役(うけやく)家老、鍋島安房(あわ)が就いていた。

 「人事を決める藩主や家老の前で勉強ができ、将来の進路が思い描けるのだから、生徒の意欲はおのずと高まっただろう」。佐賀城本丸歴史館学芸員の南里昌芳さん(48)は推測する。「他藩も有能な人材の登用を目標にしていたが、佐賀藩は藩主が積極的に関わることで、これを実現した。弘道館が輩出した多様な人材が藩政改革を担い、他藩にも影響を与えていった」

 拡張を機に教育内容を充実させた藩校は、水戸の弘道館と合わせて東西の名門と呼ばれた。他藩の出身で幕末に活躍した人物も佐賀を訪れ、藩士と刺激を与え合っていく。

=初の教育施設は聖=

 佐賀藩が藩士の教育施設として最初に整備したのは、2代藩主の光茂が元禄4(1691)年に城内二の丸に建てた聖堂だった。その9年後、3代藩主の綱茂が鬼丸の別荘「観頤(かんい)荘」に聖堂を移した。

 豪商の武富廉斎(れんさい)も同時期に、大財に聖堂を建てて、城下の教育施設は2カ所になる。ただ、どちらも当時の城下町からは外れに位置し、通学に不便とされ、次第に学生数が減って廃校寸前に陥った。

 このため、8代藩主の治茂は弘道館を建設するに当たり、城下町の中心に位置していた松原小路を選んだ。藩政改革を成功させた熊本藩の藩校「時習館」をモデルにした。

 治茂の弘道館設立の動機の一つになったといわれるのが、藩士から提出された「御仕組八ケ条(おしくみはちかじょう)」。人材登用が必要だが、有能な家臣が非常に乏しく、計画的に教育することで優れた人材が育つと説いていた。

1781(天明元) 佐賀藩8代藩主の鍋島治茂が弘道館設立

1806(文化3) 古賀穀堂が「学政管見」を著す

1830(天保元) 鍋島直正が10代藩主に就任

1840(天保11)弘道館を佐賀城北堀端に移転、拡張

 ■次回は、他藩などから幕末期に佐賀を訪れた人物を取り上げます。

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