今村雅弘復興相の会見は、記者会見の重みと記者の責務について改めて考える契機になった。大臣会見は国民に代わって、政府方針や施策をただす重要な機会。政治家の言葉を公にすることで問題点を浮き彫りにし、責任の所在を明らかにしていく。今村復興相の会見ではフリーの記者が厳しく回答を迫った。そこでは当事者に代わって「知るべきこと」「伝えるべきこと」を聞くという記者としての当然の責務を提示した。

 今村復興相の会見録は、復興庁のホームページに全文が掲載されている。テレビでのやり取りをみると、「売り言葉に買い言葉」のような応酬の結果と捉えた人もいたかもしれない。ネット上では、質問した記者に対して「しつこい」と批判、今村復興相に同情的な声もあった。今村復興相の「激高」の背景には、職務は果たしてきたという自負もあったろう。

 しかしながら、記者の質問によって、原発事故での自主避難者に対する国の姿勢が図らずも露呈したことは確かだ。福島の人たちは「知りたかった」はずだ。避難者である自分たちへの政府の考え方を。その一番大事なところを、フリー記者は聞いたのだった。

 記者会見で思い出すのは、1975年10月31日に行われた昭和天皇と日本記者クラブとの会見だ。広島市にある中国放送の記者、秋信利彦氏(故人)が、手を挙げて次のように質問した。

 「戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受け止められましたか」

 すると、昭和天皇は次のように答えた。

 「遺憾には思っていますが、戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っています」

 この会見は従来、宮内記者会だけに絞られていた会見を、ほかの記者にも広げたものだった。予定外の質問に会見場はざわついた。会見が訪米直後のタイミングであったため、原爆に触れるには批判もあったという。だが、とっさの質問でありながら、昭和天皇は体を秋信記者の方に向け、真摯(しんし)に受け答えをした。この会見は翌日の佐賀新聞でも1面トップで報じている。

 秋信氏は原爆での小頭症児問題を取材していた記者だった。会見時は戦後30年の節目。広島の記者として原爆のことを聞くのは当然のことだったと秋信氏は後に話している。被爆者に代わって、これだけは聞かなければならないという思いが彼を動かしたのだろう。

 最近、よく「寄り添う」という言葉を耳にする。報道機関にとって寄り添う作業のひとつは聞く機会の限られた当事者に代わって、「聞くべきことを聞き」、「伝えるべきことを伝える」ことだろう。その意味では、今村復興相に迫ったフリー記者も、天皇会見の秋信記者も、思いは同じだったのではないか。

 全国の新聞社、放送局では新人記者が研修を終え、支局や支社に配属される時期だ。情報管理が進み、取材環境が厳しくなっている今、時には、権力を持つ人たちの「強弁」や「はぐらかし」に遭うだろう。だが、それに立ち向かう気概を持ち、記者としての思いと情熱を持って、人々に寄り添う仕事をしてほしい。(丸田康循)

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