「木下恵介DVD-BOX 第三集<10枚組>」2万円(税別)発売・販売元:松竹(c)1951~56松竹

海の花火のロケ地となった呼子=唐津市呼子町

地図

ロケ現場は連日、黒山の人だかりとなった=1951(昭和26)年、呼子町

川添さん=唐津市呼子町

■暗い時代のはかない恋

 夕映えの海に、港を出る漁船のシルエットが浮かぶ。唐津市呼子町。朝市やイカの生き作りで有名な港町は、水面(みなも)に映すその姿を、時の流れとともに変えてきた。

 江戸時代から捕鯨基地として栄え、明治になると石炭運搬船の寄港地にもなった。岸壁に遊郭が立ち並び、荒くれ者たちが出入りした。木下恵介監督の「海の花火」は、そのにぎわいに陰りが差した戦後間もないころを舞台にしている。

 木下監督は「二十四の瞳」をはじめ多くの名作を手掛け、邦画全盛期に黒澤明監督と並び称されるほどだった。舞台となった土地土地の魅力を美しい映像にして描き、「海の花火」も入り江の港町の遠景が印象深い。

 撮影があったのは1951(昭和26)年8月。戦後の混乱期にわざわざ九州の田舎までロケに来たのは、監督の実弟で音楽担当の忠司さんが戦時中、陸軍船舶兵として呼子に滞在したのが縁になったという。

 「忠司さんが兄に『呼子に行けばおいしい魚がたくさん食えるぞ』とか言ったのかもしれない」。6年前、地元で映画の回顧展を開いた地域おこしグループ代表の八幡崇経さん(57)は冗談めかして言う。木下監督は食通で有名だった。

 脚本は木下監督のオリジナルで、忠司さんの体験が反映されている。笠智衆演じる漁業組合長のモデルは、呼子で懇意にしていた海産物問屋の主人といわれている。そしてほとんど知られていないが、組合長の娘と恋に落ちる元船舶兵は、忠司さん自身だ。

 実際のお相手は海産物問屋のはす向かいにある商店の従業員で、20代後半だった忠司さんより10歳年下だった。終戦で古里の静岡県に帰った忠司さんは女性に「来てほしい」と求婚するが、「呼子を離れられない」と断られた。映画では、2人は困難を乗り越えて結ばれている。

 この秘話を回顧展の準備中に知った八幡さんたちは数年前、それぞれの元を訪ねた。町外の福祉施設にいる女性は当時を覚えていて、忠司さんとは終戦後に一度会ったきりで、ロケ隊が来た時も顔を出さなかった。女性は昔の恋を振り返らない。八幡さんがそう思っていると、手紙の束が差し出された。

 手紙は便せんで十数通。戦後、忠司さんから送られたもので、共通の趣味だった詩や文学を話題にしていたが、中身はラブレターだった。

 <ひとりは ひとりを 夕暮の 月の岬で まちました いくさに敗(ま)けた 心と心が 倚(よ)りそいて 悲しい 希望が 生まれます>

 戦争という暗い時代の恋物語。甘くほろ苦い思い出は、水面にきらめく「水光」のように、はかなく輝き続けていた。

■「海の花火」ストーリー

 1949(昭和24)年の呼子港。漁業組合の組合長・神谷は、組合を赤字化させた船長らを解雇し、若くて有能な兄弟を雇う。しかし、魚価の暴落で赤字は回復せず、首にした船長からは嫌がらせを受ける。さらに持ち船が国の減船政策に引っ掛かり、組合は存続の危機に陥ってしまう。組合長の苦闘に、若者たちの恋愛模様を絡めて描いた群衆劇。出演は木暮実千代、笠智衆、山田五十鈴、三國連太郎、津島恵子、杉村春子ら。1951年公開。モノクロ122分。

■MEMORY

木下監督の寄せ書きパラソル

 時は邦画全盛期。人気監督と俳優たちが来るとあって、小さな港町には連日大勢の見物客が訪れた。カメラの周辺はいつも黒山の人だかりで、地元の文化サークル「微笑会」のメンバーたちが混乱する現場の整理など裏方の仕事を担った。

 ロケハンに来ていた木下恵介監督と酒席で意気投合し、「『何でもやりますからぜひ映画を撮ってください』と言ったんだよね」と川添惠さん(90)。5月にある呼子大綱引きの場面を撮影するため、真夏に1軒ずつ回って「こいのぼりを揚げてください」とお願いした。「大変だったけど、ありがたい経験だった。三國(連太郎)さんと一緒に風呂に入ったし、夢物語ですよ」

 ロケの打ち上げの場で、木下監督から女優陣が使ったパラソルが贈られた。スタッフたちの寄せ書きがあり、木下監督は「呼子かふ はるばると来て さまざまの 人懐かしや 今宵(こよい)別れて」と書いている。

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